なんだか流行っているらしい?ヘイト本 | 手仕事人まるひげのブログ

手仕事人まるひげのブログ

 相撲と芝居、ときどき神秘学、その他日常…


昨日のニュースで、近隣の国々に関するヘイト的な内容の本が、最近よく売れているというニュースを見ました。

(そのこと自体については様々な意見があると思うのですが、こういう書物に影響されて、あたかもそれを自分の意見のように発言する人も出てくるだろう、ということを考えると、とても残念な気持ちになります)

自分の関心は少し別というか、ずれたところにあって、「どうして、人の悪口を言ったりこき下ろすのって、気持ちがいいんだろう?」ということ。

(なんか人の悪口とかを言ってると、興奮気味な快感とともに、すごく自分が優位に立っているかのような、支配感がありますよね)

暫く考え続けていると答えが出るだろうと思っていたところ、たまたま読んでいた「人間理解からの教育」(ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳:ちくま学芸文庫)に、連想のきっかけがありました。


きっかけになったのは、「歌を歌う時の内的幸福感を、草原の牛が消化するときに消化器官から発する内的な幸福感と比較して説明しました」という部分。

この文章は、牛の腸内での内的な感覚と、人が歌を歌う時の内的幸福感との関連を扱っていますが、

(余談ですが、人間の腸というかお腹は、占星術的-オカルト的には乙女座と結びついています)

腸との関連から、

「あ、ヘイトスピーチのとかの快感って、便の排泄に伴う快感と、”悪い方向に”結びついているのかも…」と、思った次第です。

昔の動物園で、「ストレスのたまったチンパンジー(ゴリラだったかも)が、お客さんに向けて糞を投げつけてきた」みたいなことがあったそうなのですが、それの方が近いのかもですが。


アストラル的に観ても、ヘイトスピーチやそういった意見は、文字通り糞尿をまき散らすように、イメージ観照されるのでしょうね。

(繊細な感性をお持ちの方ですと、”糞尿をまき散らしているだけに感じられるような意見”に、そもそも強い不快感をお感じじゃないかと思います)


精神が肉体から自由ではない時に、われわれはそういう、こう言ってよければ”低次の衝動”に支配され、それに突き動かされるのかもしれません。

このこともやはり、「精神の自由」に、係ることなのだろうと思うのです。