木曜日になりました。

最近、国際的なジャーナリストの組織である「国境なき記者団」が、報道の自由度の「世界ランキング2024」を発表しました。

その発表によると、日本は世界で70位に後退したということでした。

日本のマスメディアは、他国の言論統制には厳しい論調で踏み込んでいくのに、自分たちの不甲斐なさには甘すぎる「惨状」を呈しています。

「70位」という低位も当然ですね。

次の『現代メディア』の記事(かなり編集しています、すみません)は、ぜひみなさんに読んでいただきたいものです。

『「記者クラブ」を存続させたいマスコミの呆れた思惑…「報道の自由度」世界ランキングで、日本のマスコミが報じない決定的な過ち
https://gendai.media/articles/-/129949
■報告書の翻訳を改変
 5月3日、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」による「報道の自由度」世界ランキング2024が発表された。日本は世界で70位に後退したと、フランスのAFP通信と朝日新聞が同日に伝えた。後日、日テレ、TBS、共同、時事と続いた。
 AFP通信は、世界全体のランキングの推移を書き、日本の箇所は「日本は昨年の68位から70位に順位を下げた」とだけ、さらりと伝えた。
 基本的にAFP通信は、新聞社やテレビ局用に送る通信社による記事なので、網羅的に世界情勢を伝えている。日本のメディアは、国境なき記者団が発表した「Japan」部分の報告書を翻訳(要約)して伝えていた。しかし、これがどうもおかしいのだ。
 結論から書くと、朝日新聞を含め日本のメディアは、「Japan」部分を間違えて要約していたり、メディアとして都合が悪いところはスルー、改変をしたりしていた。日本メディアは「ランキングが伝われば良い」という論調で、日本での記事は、日本メディアへの「国境なき記者団」からの指摘を打ち消すような内容だった。
 おそらくランキング好きの日本人には、日本の世界ランキングが下がったとしか頭に残らないだろう。しかし、それでは日本の報道が良くなるとは思えない。本記事では、国境なき記者団による原文を合わせて紹介していく。
■まるで違う意味に
 「Japan」部分は、原文では「前文」と「政治的背景」に分かれていますが、まず、「前文」から。

(前文の原文)
 日本は議会制民主主義国家であり、報道の自由と多元主義の原則が一般的に尊重されている。しかし、旧来の利害関係、ビジネス上の利害関係、政治的圧力、男女不平等によって、ジャーナリストたちは権力の監視役としての役割を完全に果たせないことが多い。

■飼い犬となった日本のマスコミ
原文「旧来の利害関係、ビジネス上の利害関係」
朝日新聞「伝統の重みや経済的利益」
日本テレビ「伝統やビジネス上の利益」
時事通信「商業的利益」
TBS、共同通信「(言及すらなし)」

 メディアにおける旧来の利害関係とは、「政治家や役人とマスコミとの関係」、ビジネス上の利害関係とは、「テレビ局と新聞社の広告主(スポンサー)とマスコミとの関係」のことを指している。つまり、日本のマスコミは「それらと利害関係にあるから」日本の政治家にも省庁にも大企業にも監視の役割が果たせていない、と国境なき記者団に指摘されているのだ。
 ウォッチドッグ(番犬)・ジャーナリズムとは、権力者の行動について情報を収集し、議員などの責任を追及、国民に情報を提供するため、記者は権力者と一定の職業的距離を保つ必要がある。
 しかし、日本のマスコミの記者たちは、大臣など有力な政治家とべったりとなって「自分だけが知る情報を政治家からもらって」社内で出世する。ウォッチドッグとはまるで逆だ。番犬より、飼い犬と言ったほうが良いかもしれない。
■海外からの客観的視点を無視
 「Japan」の「政治的背景」の原文は以下の通り。

(政治的背景の原文)
 2012年に右派国粋主義が台頭して以来、ジャーナリストたちは自分たちに対する不信感、さらには敵意に、不満を抱いている。既成の報道機関だけが記者会見や高官との面会を許可される「記者クラブ」という制度は、記者たちを自己検閲に追い込み、かつ、フリーランスの記者たちや外国人記者たちに対するあからさまな差別を作り出す。

 「右派国粋主義の台頭」という言葉は、国境なき記者団の主観なのだから、正しいかどうかは日本人が判断すればいいことだが、記事を読む日本人としては、海外から客観視された「日本像」を知ることが重要ではないだろうか。
 また、国境なき記者団による「日本のマスコミ(既成の報道機関)だけが会見に参加を許可されている記者クラブ制度」という指摘は消えてしまっている。
 記者クラブ制度の説明を、朝日新聞と共同、TBSの記事では見事にスルーしていた。日テレや時事に至っては、記者クラブ自体にも言及していない。記者クラブは、国会だけではなく、すべての都道府県庁、政令市や中核市の自治体にもあるのに、だ。
 日本のマスコミは、記者会見や記者クラブにフリージャーナリストが入ることがよほど嫌なのだろう。フリージャーナリストが会見などに入り込むと、記者クラブに入っているマスコミにとって「旧来の利害関係」である、政治家や役人とマスコミとの関係が崩れてしまうからだろう。記者クラブの件は、日本のマスコミには、「報道しない自由がある」といったところだ。
 しかしながら、マスコミが黙殺しているフリージャーナリストや学者たちが、「旧統一教会が自民党議員の選挙応援をしていたこと」や「自民党の政治資金パーティーでの裏金作りをしていたこと」を暴いた。週刊誌も数々と暴いているが、週刊誌記者も記者クラブには入っていない。
 記者クラブの記者や政治家べったりの政治記者は、政治家の不祥事などを暴かない。それが国境なき記者団が指摘した「自己検閲」だ。それでも記者クラブを存続させたいのだろう。だからこそ原文の「旧来の利害関係」の訳を日本のマスコミは「伝統(の重み)」と曖昧に訳したのかもしれない。
■”やってる感”を出す
 国境なき記者団は、「日本はいまだ主要5大メディア(読売、朝日、日経、毎日、フジサンケイ)によるコングロマリッド(複合巨大企業)が、ニュースサイトよりも影響力を持っている」と書いている。コングロマリッドという指摘は、日本メディアのクロスオーナーシップのことだろう。
 アメリカでは、同一企業がテレビ局と新聞社を持つクロスオーナーシップは規制で禁止されている。言論の多様性が削がれてしまうからだ。テレビ局5社、新聞社5社があれば、本来「10の言論」ができるはずだが、クロスオーナーシップの元でテレビ局と新聞社の2社が同一会社であれば、「5の言論」しか生まれなくなる。クロスオーナーシップ規制は、これを防ぐためにある。
 日本ではほとんどの場合、質問する記者が事前に決まっていて、政治家や企業の社長も回答はほぼ決まっている。それなのに大勢の記者クラブの記者たちが周りを囲んでいたり、記者会見に出席したりしている。大勢いても、質問者が決まっていれば出てくる言論の数は少ない。報道内容も横並びになる。ただでさえ複合巨大企業となってマスコミの言論の数が少ないなか、外国人記者や他のジャーナリストの排除は、さらに言論の数を減らしていることにもなっている。
 日本の記者会見では、記者同士が会見後の「メモ合わせ」と呼ばれる答え合わせまでしているというが、かなり生産性の低い作業でもある。本当にそうであれば、全社同じ記事になるので、質問者と録音・速記者の数人だけ出席し、メールで共有すれば済むからだ。そもそも、発表された内容をそのまま記事にするのは、通信社の仕事と割り切ったほうがいい。
 つまり、日本のマスコミの記者たちは“やってる感”を出してみんなで疲れているだけで、与えられた特権のなかでウォッチドッグになっていないということだ。残念なことに、政治関連のマスコミのスクープと言っても、内閣改造の人事や辞任発表を懇意にしている政治家から前日に教えてもらう程度になっている。国民にとっては、発表当日に知ってもまったく問題ない内容ばかりだろう。
■被害を受けるのは国民
 結局のところ、国境なき記者団が発表した日本の「報道の自由度」の内容は、日本メディアの「報道しない自由」によって周知されることはなくなってしまった。おそらく来年また同じような報告書が出ても、日本メディアの「旧来の利害関係」「ビジネス上の利害関係」の箇所は、「伝統」「経済的利益」といった感じで訳されてしまうのだろう。
 失われた30年が政治の責任であるのなら、番犬のようにジャーナリズムが機能していないことも要因でもある。放置していると将来的に被害を受けるのは「国民」であることを忘れてはならない。
 なお、筆者は本記事の正確を期すため、日米バイリンガルのアメリカの大学教授と、ニューヨーク州の弁護士にも、国境なき記者団が発表した「報道の自由度」世界ランキング2024の原文を確認してもらった。』

かなり編集しても長いのですが、ぜひ引用元を訪れて全文を読んでみてください。

日本のマスメディアに絶望感を抱くだけかもしれませんが、それでも、正しいジャーナリズムも、子どもたちにとって必要なものであることを忘れないでください。

一方、正しいジャーナリズムのあり方として、次のような記事(『東スポWEB』)もありました。

『東山紀之SMILE社の抗議にBBCが反論 鈴木エイト氏「ジャーナリズムを示した」
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/301158
 イギリスBBCが3日、SMILE―UP.の抗議文書に反論する声明を発表した。
 BBCは3月30日に「捕食者の影 ジャニーズ解体のその後」を放送。東山紀之社長がインタビュー取材で「言論の自由もあると思うんですね。僕は別に誹謗中傷を推奨しているわけでもなく、多分その人にとってはそれが正義の意見なんだろうなと思う時もあります」などと発言し、誹謗中傷と言論の自由を並べたことで、一部から批判の声が相次いだ。
 これをSMILE社が問題視。東山の発言内容は「実際の発言の趣旨とは異なって放送された」と主張し、インタビューで「なるべくなら誹謗中傷はなくしていきたいと僕自身も思っています」と発言した部分を省略したことで「誹謗中傷を助長している」と批判を受ける状況になったと指摘した。
 その上で「東山の発言を意図的にゆがめて放送し、視聴者の印象を操作しようとするものであると言わざるを得ず、大変遺憾に存じます」とし、謝罪と訂正を求めていた。
 これにBBCは、「このドキュメンタリーは、BBCの厳格な編集ガイドラインに沿って綿密に調査され、報道されました」と説明。続けて「BBCは、編集上の決定に際して常に慎重な検討を重ねており、東山氏を含むすべての取材対象者が公平かつ正確に描写され、必要なすべての反論機会が与えられるよう配慮しました」と反論した。
 また、SMILE社は性被害の補償業務にボランティアで協力している性被害者と、BBCの担当者による面談について、面談の内容については放送しないよう約束を取り交わしたと主張した上で、面談の内容が放送されたことは「約束違反」と抗議していた。
 これに対してもBBCは、「SMILE―UP.社が設定したサバイバーとの面談において、その話し合われる内容のいかなる制限にも同意しておらず、同社の主張を否定します」と強調。〝約束を取り付けた〟という主張自体を否定し「私たちは、自らのジャーナリズムに自信を持っています」とした。
 ジャーナリストの鈴木エイト氏は同日、X(旧ツイッター)を更新し「SMILE―UP社からの抗議に対するBBCの声明。SMILE―UPの主張・見解を完全否定した上でBBCとしてのジャーナリズムを示した。BBCがここで『ジャーナリズム』という言葉を提示した意味を考えるべき」と私見をつづっている。』

旧ジャニーズ事務所の暴走を許したのも、東山氏の傲慢さが抜けないのも、日本のマスメディアにその責任の一端があることは間違いないでしょう。

さて、教育に直接関係ない(ようにみえる)話題が長くなりましたので、急いで軌道修正します。

次の記事は、『プレジデントオンライン』のものです(こちらも編集しています、すみません)。

なお、記事中の国際バカロレアとは、「世界の複雑さを理解して、そのことに対処できる生徒を育成し、未来へ責任ある行動をとるための態度とスキルを身に付けさせるとともに、国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格)を与える教育プログラム」のことです。
(https://ibconsortium.mext.go.jp/about-ib/)

『「英語の早期教育」は本当に必要なのか…灘中の国語教師が指摘する日本の「グローバル人材育成」の大問題 国際バカロレアでも思考の前提には「母語」がある
https://president.jp/articles/-/80347
井上 志音 灘中学校・灘高等学校 国語科教諭
加藤 紀子 教育情報サイト「リセマム」編集長
 英語の早期教育は必要なのか。灘中学校・高等学校で国語科教諭を務める井上志音さんは「国際バカロレア(IB)は公式的に3つの教授言語(英語・フランス語・スペイン語)を設けているが、深く思考する際には母語も活用する。いきなりグローバル人材を目指すのではなく、ローカルな部分から広げていくように考えたほうがいいのではないか」という。
※本稿は、井上志音著、加藤紀子聞き手『親に知ってもらいたい 国語の新常識』(時事通信社)の一部を再編集したものです。

【加藤】今、日本の教育熱心なご家庭の間でインターナショナルスクールへの関心が高まっていて、早くから子どもに英語を身につけさせようという流れがあります。ところが、英語は実は「キラーランゲージ」と呼ばれていて、ほかの言語を排除してしまう危険性を持ち合わせているという話を、第二言語習得を専門とされている早稲田大学の原田哲男教授からうかがったことがあります。
 「人種の坩堝」と言われるアメリカは移民が多く、彼らが英語にシフトしていってしまうため、「言語の墓場」と言われているそうです。だから母語を大事にしないと、結果的にモノリンガル(単一の言語のみを話す人)の思考に変わってしまうと原田教授はおっしゃっていました。日本語と日本文化を十分理解したバイリンガルの育成が大切なのだと。
 母語の重要性について、IBではどのように考えられているのでしょうか。
【井上】IBでは教授言語(学校教育の教授で使用される言語)に強いこだわりを持っていますが、一方でIB教員は、生徒が深く思考する際の母語の重要性にも目を向けなければなりません。また、IBは「全教科の教員が言語の教員でもある」というスタンスです。人間は言葉で考えますから。
 また、IBには育てるべき「10の学習者像」があり、そこから展開する形で各教科があるというように、もともと教科は、大きな教育目標を実現するための手段という考え方があります。
 一方、日本では英語は英語、国語は国語と教科が分かれていますので、英語と国語の関係性を生徒も自覚しにくい面があります。国語での学びを英語に活かしたり、英語での学びを国語に活かしたりすることがそもそもあり得ないというか。日本語と英語を比較できるような授業があればいいのですが、すべての学校でできるかというと、現状では難しいです。
【加藤】たとえばフランスではフランス語と英語を比較しながら学んでいますよね。
【井上】そうですね。私も英文学とそれを翻訳した日本文学とを同時に比較しながら教える授業を試みています。
 このあたりはおそらく教科縦割りの弊害なんですね。日本では「国語のことは国語の授業でやってね」ということになっていますが、その考え方を変えなければいけません。灘校の場合は担任団持ち上がり制なので横のつながりが強く、教科横断的な試みも行いやすい面があります。
【加藤】その点で私立の学校は柔軟ですよね。中高一貫校であれば高校受験がないので、教科横断的な授業ができたり、いろいろな試みがしやすい環境かもしれません。
【井上】先ほど「インターナショナルスクールへの関心が高まっている」というお話がありましたが、加藤さんはその影響で母語がないがしろにされていると感じているのでしょうか。
【加藤】「母語がないがしろ」というわけではありませんが、「英語力を身につけさせなければ」という危機感の高まりがどんどん低年齢化し、インターナショナルプリスクールが人気のようです。
 そもそも母国語を持って育つとはどういうことなのだろうと最近すごく考えます。たとえばアメリカで教育を受けて完全にアメリカ人として育てられた日本人の中に、アイデンティティ・クライシスに陥ったり、日本に帰国しても日本語ができなくて馴染めず悩んだりしてしまう人もいるようです。
【井上】たとえば教授言語が英語のIB校で、批判的思考を培う「TOK(Theory of Knowledge/知の理論)」というコアを学んでいくときに、授業は英語で行ったとしても、生徒の母語が日本語の場合はいったん日本語で考えてから英語にするほうがいい、ということがあります。初めから「日本語なんてどうでもいいから英語を身につけよう」という子は私の周りにはいませんね。日本語は家庭で話しているのだから、それ以上はいらないと考えている人たちが一定数いるのでしょうか。
(中略)
【井上】「グローバル社会で生き抜く力」では、確かに語学力や異文化への理解力もありますが、やはり自分の文化が軸です。自文化理解があってこそのアイデンティティですよね。
【加藤】そうですね。自分が何者なのか、どこから来たのか、どんなところで育ったのか、というように、まず自分のストーリーを語れなければなりません。
 グローバルって本来そういうことですよね。自分が育ったローカルがあってこそのグローバル人材なのであって、そこを履き違えてはいけないのではないかと感じます。』

こちらもかなり編集・省略していますので、興味のある方は、ぜひ引用元を訪れて全文を読んでみてください。

さて、この記事で、私が特に興味を抱いた部分を挙げておきます。

①『日本語と日本文化を十分理解したバイリンガルの育成が大切だ。』

②『IB教員は、生徒が深く思考する際の母語の重要性にも目を向けなければならない。』

③『IBは「全教科の教員が言語の教員でもある」というスタンス。人間は言葉で考えるから。』

④『日本では英語は英語、国語は国語と教科が分かれているが、日本語と英語を比較できるような授業があればいい。』

⑤『「母語がないがしろに」というわけではないが、「英語力を身につけさせなければ」という危機感の高まりがどんどん低年齢化し、今はインターナショナルプリスクールが人気のようだ。』

⑥『そもそも母国語を持って育つとはどういうことかと最近すごく考える。たとえばアメリカで教育を受けて、完全にアメリカ人として育てられた日本人の中に、アイデンティティ・クライシスに陥ったり、日本に帰国しても日本語ができなくて馴染めず悩んだりしてしまう人もいるようだ。』

⑦『授業は英語で行ったとしても、生徒の母語が日本語の場合はいったん日本語で考えてから英語にするほうがいい。』

⑧『「グローバル社会で生き抜く力」では、語学力や異文化への理解力も必要だが、やはり自分の文化が軸で、自文化理解があってこそのアイデンティティだ。』

⑨『自分が何者なのか、どこから来たのか、どんなところで育ったのか、というように、まず自分のストーリーを語れなければならない。』

みなさんのお返事を待って、次回のメルマガで考えてみたいと思います。