木曜日になりました。

冬休みもグッと近づいてきましたが、年末年始の楽しい計画は万全でしょうか。

親子で楽しい時間を過ごす方法はたくさんあります。

体を動かす時間も、じっくり落ち着いて何かに取り組む時間も、どちらも大切にしてください。

バランスの取れた長期休暇を目指してくださいね。

というところで。最近私が興味をもった記事(『Kodansha Bluebacks』)を紹介させていただきます。

『「ホモ・サピエンスの起源」は本当にアフリカなのか…? じつは「意外な別の場所」かもしれないと言える4つのヒント
https://gendai.media/articles/-/102716
■ホモ・サピエンスは本当にアフリカで生まれたのか
 私たちヒト(学名はホモ・サピエンス)はアフリカで生まれた、というのが現在の有力な説だ。このアフリカ起源説は多くの証拠によって支えられており、まず覆ることはないだろうと思われていた。しかし最近、この説に疑問を投げかけるような証拠がいくつか見つかってきたのである。
 まず一つ目は、ヒトとネアンデルタール人が分岐した場所だ。
 化石からDNAを抽出することは難しい。たとえば、ネアンデルタール人の化石の中に含まれているDNAのほとんどは、ネアンデルタール人のDNAではなく、他の生物のDNAが混入したものだ。ネアンデルタール人のDNAは、たとえあったとしても、ほんのわずかしかない。しかも、そのDNAはズタズタに切れているし、たいていは損傷しており、遺伝情報(つまり塩基配列)が変化していることさえある。
 そのため、かつての古代DNAの研究には間違っているものがたくさんあり、古代DNAの研究者というだけで胡散臭い目で見られることさえあった。
 しかし、古代DNAの研究の難しさがきちんと認識され、対応策が取られるようになってから、状況は変わってきた。さらに、次世代シークエンサという新しい技術の導入によって、安価に大量にDNAの塩基配列を読めるようになったことも、古代DNA研究の追い風になった。
 そうして2010年以降、次世代シークエンサを使った古代DNAの研究結果が続々と報告され始める。そして、そのなかには、ネアンデルタール人の研究も含まれていた。その結果、ネアンデルタール人に至る系統と、私たちヒトに至る系統が分岐したのは、およそ64万年前であることが明らかになった。
 しかし、年代は決まったものの、この分岐がどこで起きたのかがわからないのである。
■共通祖先で見解が分かれる「分岐場所」
 ネアンデルタール人とヒトの共通祖先はよくわからないが、一説ではホモ・ハイデルベルゲンシスとされている。この説が正しければ、分岐はホモ・ハイデルベルゲンシスが住んでいたところで起きたはずだ。しかし、ホモ・ハイデルベルゲンシスはアフリカにもユーラシアにも住んでいたので、どちらで分岐が起きたのかを決めることができない。
 いっぽう、分岐が起きた後のことを考えても、やはり分岐の場所を決めることができない。共通祖先から分岐して、一方はヒトに至る系統に、もう一方はネアンデルタール人に至る系統になったわけだが、ヒトの最古の化石は約30万年前のアフリカ(モロッコ)のもので、ネアンデルタール人の最古の化石は約43万年前のユーラシア(スペイン)のものだからだ。
 つまり、二つの可能性があるわけだ。分岐はアフリカで起きて、その後ネアンデルタール人がユーラシアに移住した可能性と、分岐はユーラシアで起きて、その後ヒトがアフリカに移住した可能性だ。現時点では、どちらが正しいか、わからないのである。
 また、別の説では、ヒトとネアンデルタール人の共通祖先は、ホモ・アンテセソールであるという。ホモ・アンテセソールはユーラシア(スペイン)に住んでいたので、この説が正しければ、分岐はユーラシアで起きた可能性が高い。
 つまり、ヒトはアフリカではなくユーラシアで生まれた可能性が高くなる。
(中略)
 以上の証拠から考えると、ヒトがアフリカではなくユーラシアで生まれた可能性も、それなりにありそうだ。とはいえ、ここで紹介した事実は、いずれも決定的な証拠とは成りえないものばかりである。そのため、ヒトのアフリカ起源説を覆すほどの強力な説得力はない。ないけれど、でも無視するわけにもいかない。微妙なところだ。
 実際のところは、まだわからない。しかし、ヒト(ホモ・サピエンス)のアフリカ起源説に一抹の不安があることは、覚えておいてよいことだろう。ヒトの進化については、まだわからないことがたくさんあるのである。』

興味のない人には「まったく面白くもない」ものかもしれませんが、この種のテーマか大学受験の英語長文に出ることもあります。

なり長い記事ですので、ぜひ引用元のサイトを訪れて全文を読んでみてください。

「ヒトがどうやって生まれてきたのか」は、子どもたちにとっても雄大なスケールのテーマであり、触れてみる価値は十分あると思います。

長期休暇の一日、親子で図書館に出かけていって、興味のある分野の図鑑や参考文献を探してみるのもいいのではないでしょうか。

子どもの好奇心は、どの方面に広がっていくのかまったくわかりませんが、親の好奇心が広がれば、子どもの好奇心が広がる可能性も大きくなります。

子どもの好奇心の芽を摘まないようにお願いします。

子育てといえば、大阪府の「お米支援」が話題になっています。

次の記事は、『読売新聞オンライン』です。

『大阪府の米10キロ支給、お米券での配布も検討…住民「現物支給よりもっと多く買える」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20221211-OYT1T50069/
 大阪府が物価高対策として、18歳以下の子ども約139万人に1人米10キロ相当を現物支給するとした方針を巡り、新たにお米券での配布を検討していることがわかった。現金や商品券での給付を求める声が多いためで、お米券での受け取りも可能にするという。
 吉村洋文知事は11月25日、「子育て世代の食費負担を軽減したい」として、来年3月から府内の子どもに米10キロ相当を現物支給する意向を表明。一方、現金や商品券の支給に関しては「(保護者の)パチンコ代や遊興費にならないようにする」と否定していた。
 府は配送費を含めた経費を1人約5000円と試算したが、スーパーでは米10キロを3000円程度で販売している。このため、住民から「現金や商品券ならもっと多くの米を買える」との意見のほか、府議からは「現物で支給されれば地元小売店の売り上げが減る」との懸念が示されていた。
 吉村知事はお米券の配布検討を庁内に指示。米以外の希望者には、5000円相当の別の食料品を選べる仕組みも導入するという。』

最近では、吉村府知事の考えが、電子クーポン配布にブレてきていますが、大阪府が今年7月から始めたデジタルギフト券(クオカードペイ)配布では、次の『毎日新聞』の記事(編集しています)のように、大きな問題も起こっています。

『大阪・子育て支援1万円ギフト券  「企業秘密」で利用率把握できず
https://mainichi.jp/articles/20221016/k00/00m/040/092000c
 議会では異論もあった。自民党会派が現金での支給や3万円への増額を提案した。しかし府は、現金給付には口座把握が必要で時間がかかるなどとして「ギフト券」や「1万円」は変えず、議会の議決が不要な専決処分で関連予算(約154億円)を組んだ。入札が行われ、商品券「クオカード」を発行する「株式会社クオカード」(東京)などの共同企業体が落札。7月27日、ギフト券の郵送を始めた。府民からは「子どもの絵本を買った」と歓迎の声が上がる。
 一方、利用状況を府が確認できることは盛り込まれなかった。担当者は「スピード重視の施策だったため、入札前の説明もそこに注力した。利用状況の確認は契約後に協議することになった」と話す。』

この記事は有料記事ですのでこれ以上は引用できませんが、いかがでしょうか。

相変わらず大阪は、いろいろ問題を抱えています。

今回も、メルマガにいただいたお返事を紹介させていただきます。

『昨日、60代の女性お2人と教育や躾について話しました。それぞれ子ども2人を育てたお母さんたちです。過去の非常識、あるいは自分の思いだけをぶつけて子どもを潰した親たちの話をしてくれました。やはりいつの時代も親がどういう接し方をするか、どういう教育をしていくのかにかかっていますね。公立に行かせていたボランティアさんの前で平気で公立をばかにする親や、進学校に入った子どもを自慢する親など、いろいろな話を聞いて浅はかな大人たちに憤りを感じました。そういう大人たちは育てた子達が今は大人になってどういう人間になっているんだろうと考えてしまいました。親を反面教師にして軌道修正できていればいいのですが…。』

最近「親ガチャ」という言葉が一時期流行りましたが、確かに子どもは親を選べません。

実際に、親の言動によって子どもが振り回されてしまうことも多いと思います。

とはいえ、今さら親を教育し直すのが難しい以上、心ある大人が、子どもたちに手を差し伸べるしかありません。

その心ある大人は、教師のような立場の人だけでなく、周りにいる大人たちすべてであるべきでしょう。

「よその子」に声をかけ手を差し伸べるのは簡単ではありませんが、それでも、躊躇して手を拱いている余裕はなさそうにも思います。

つくづく難しい時代に生きているのだと痛感します。

前回のメルマガで紹介した『プレジデントオンライン』の記事

『「家にテレビがない」という子は国語力が低い…塾講師が「子供にはテレビをどんどん見せて」と訴えるワケ テレビやインターネットは子育ての味方である
https://president.jp/articles/-/62787

にもいくつかお返事をいただきました。

ありがとうございます。

概ね次のような主旨のお返事でした。

『「家にテレビがないという子は国語力が低い」という意見にはびっくりしました。記事の内容は、本当でしょうか?』

私なりに少し考えてみたいと思います。

■国語が苦手な子の共通点は「テレビを見ていないこと」
■あらゆる番組を自由に見せよう

私はこの視点でデータを集めたことがありませんので、自分の経験からお話したいと思います。

まずわが家では、基本的にテレビを禁止したことはありませんし、ドラえもんのビデオなどは何度も何度も繰り返し観ていました。

とはいえ、長男も次男も、「特に国語が得意」というほどではなかったと思いますが。

「自分で生活にメリハリをつけ、いずれスケジュール管理もできるようになる」という観点からすれば、テレビも本も、マンガもゲームも、スマホもタブレットも、「親子で一緒に考える」べき対象でしょう。

今の時代では、子どもの周りから「消し去る」ことなどできないものばかりですから、「上手に付き合える」のは立派な成長ですよね。

最終的には親の判断ですが、「親自身が上記のものと上手に付き合っているのか」自省が先でしょう。

いずれにしても、「子どもの純粋培養」は慎重になるべき問題だと思います。


■「文字を読めること=内容を理解できる」ではない
■読み聞かせの後に対話することが大切
■ちゃんと読めているか確かめる方法

私の身近にあった一例を挙げてみます。

「できるだけ家族で同じ番組(ニュースも含む)を観るようにしています。そして、番組中も番組終了後も、その内容に関して必ず話すようにしています。映画でも本でも、マンガでもゲームでも、親子で話すと多くの発見があります」

というお母さんがいらっしゃいました。

その通りだと思いました。

子どもは「分かった」「分かってる」とよくいいますが、実際にいろいろな出来事をどの程度理解しているのかを確認するのは、子育てや家庭学習の基本です。

同時に、親自身の「分かった」「分かってる」も怪しいものです。

エラソウナことをいっても、子どもに理解してもらえなければ無意味です。

子どもの理解を促すには、親の側に、

①自分の頭の中でキレイに整理されている
②子どもにとってわかりやすい言葉を選ぶ
③子どもがどの程度理解できたのか確認する
④時に、何度も対話を繰り返す

などが必要となります。

親自身が「少しでも賢くなろう」という意識も必須ですが、完璧になる必要はありません。

親が真剣に取り組んでいるなら、素直に「これ以上分からない」もOKだと思います。

いずれにしても、「親子の対話、家族の対話」は、子育てで絶対に手抜きをしてはいけない要素です。

最後に。

次回のメルマガは、長期休暇前の恒例(?)で、灘中の国語(平成19年1日目)の過去問紹介とさせていただきます。