今年(2015年9月)のシルバーウイークは久しぶりに神戸に帰りました。
そして35年ぶりに高校の同窓会に出席しました。405名の学年で100人以上の出席者ということはすごい!
高校時代に共に汗を流したサッカー部の連中は全く高校生のままで、可笑しくって笑いっぱなしの同窓会でした。
人間というものは何年たっても変わらないものだと改めて思いました。

翌日の9月21日には、友人と共に20年ぶりの阪神淡路大震災の振り返りを行いました。
あの日、1995年1月17日の発生直後のあの日の東灘区の御影町の私の行動を追体験をしました。
しかし、あの当時の爪痕を探しても全く何もなかったような町並みなので驚きました。

ただ、HATT神戸の「人と防災未来センター」は阪神淡路大震災当時のことを思い出すのに十分な施設でした。
映像や遺品、資料を見ているとあの当時のことがまざまざと蘇り、胸が苦しくなってきました。20年昔のことが昨日のことのように感じられました。

自分の中で阪神淡路大震災と「選挙」のことはあまり思い出しくない出来事で自分の中では長らく封印していたことですが、実は自分の人生の中でもかなり大きなターニングポイントとなる出来事でした。
しかし、そろそろ自分の中で何か総括する必要があると思い、今回は述べておきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私がなぜ、神戸に戻ってきたのか。
答えは簡単。
私がその当時、勤めていた有機野菜の宅配ネットワークの代表者が神戸出身で、
1993年に行われた衆議院議員選挙に神戸から立候補予定で、
彼を支援するためのスペシャルメンバーが神戸で活動を始めたのが1993年の春だった。

私はその組織で代表秘書のような仕事をしており、また神戸が同郷ということもあり、
格別の間柄でもあった。
新党さきがけ代表の武村正義さん(当時はまだ自民党だった)とその代表者は懇意にしており、
宮沢内閣の末期に自民党から何人か離党し、新党をつくることは事前にわかっていた。
当時、日本新党の細川護熙さんの人気は絶頂であり、私たちの代表は日本新党から公認をもらい、
中選挙区制度の最後の神戸1区で戦う予定だった。

私たちは、有機野菜の宅配ネットワークのキャンペーンを行いながら、次期、衆議院選挙に向けての準備を進めていた。そして、6月宮沢内閣の内閣不信任決議が可決し、新党さきがけと新生党ができた。このとき、自民党から離党した武村正義ら十数名のほとんどは内閣不信任に対し反対票を投じた。このことはあまり大きく報じられていなかったが、自民党に対しきちんと最後のけじめをつけて離党した「新党さきがけ」のメンバーは、他の新党とは違い、新鮮でかっこ良かった。

そして、93年7月に解散総選挙となり、私たちの代表者は当選した。
私はそのまま、出向という形で代表者の地元秘書となった。政治の世界に入るなどと夢にも思わなかったところに、彼の選挙区である、神戸市東灘区で市会議員の失職があり、93年10月の神戸市長選挙と併せて行われる補欠選挙に私が出馬することとなった。
告示の10日前ぐらいに出馬表明し、「日本新党 公認」という肩書だけで闘った。
結果はもちろん落選だったが次点だった。6696票を頂き、95年4月に予定されている統一地方選挙では、確実に神戸市会選挙では当選できるだろうと誰もが思った。

翌年94年の5月22日に妻と結婚した。我が母校である関西学院大学のチャペルで行った。妻は同じ会社の同僚だった。

そして、いよいよ、1995年の1月17日を迎えることになるのだった。
(つづく)