このブログをはじめたときの一番最初の記事は「自己紹介」だった。
2006年のことなので、内容が古いままになっていたので、
その後の「事故紹介」ならず「自己紹介」をしたい。
1995年1月17日に神戸市東灘区御影町で阪神淡路大震災を経験し、奇跡的に無傷で助かった。
その際、不眠不休で被災者支援のボランティア活動を行い数カ月後に倒れる。
ボランティア山形のメンバーと出会い、復興支援活動で多大なお世話を頂いた。
阪神淡路大震災の体験が自分の価値観、人生観を大きく変えた。
その年の統一地方選挙は神戸は被災地のため7月に投票がずれ込んだ。
若い20代、30代の仲間6人と共に神戸市会議員選挙に挑んだが、6人全員落選した。
その後、東京へ戻り、らでぃっしゅぼーやの仕事を再開し、全国各地の会員拡大の仕事をした。
1998年にらでぃっしゅぼーやの今までの経営の悪化のため、大規模なリストラを行った。
250人の社員のうち100人の首切り、配置転換、出向などを人事担当として行った。
自らの手で仲間のリストラを行い最後は自分で自分の首を切り、退職した。
1998年の12月ことだった。
その頃、新党さきがけの武村正義代表からお声がかり、新しい「さきがけ」の事務局長を担うこととなった。何故かしら昔から武村代表には気に入られていたのだった。1999年1月から就任した。
しかし、その時のさきがけは国会議員が3名のみ。残念ながら、細川内閣、自社さ政権のときのような輝きはなかったが、日中沙漠緑化や財政赤字を憂うる活動など、まさに「小さくてもキラリと光る」存在感を国会で示していた。
武村正義代表が病気となり、総選挙で落選し、国会議員がゼロとなり、さきがけは中村敦夫参議院議員にバトンタッチし、私も一旦、永田町から足を洗うこととなった。(2001年7月)
そして、その年に自分が人生で一番つらい時期を過ごすなど、その時は想像すらできなかった。
つづきはまた次回。
2006年のことなので、内容が古いままになっていたので、
その後の「事故紹介」ならず「自己紹介」をしたい。
1995年1月17日に神戸市東灘区御影町で阪神淡路大震災を経験し、奇跡的に無傷で助かった。
その際、不眠不休で被災者支援のボランティア活動を行い数カ月後に倒れる。
ボランティア山形のメンバーと出会い、復興支援活動で多大なお世話を頂いた。
阪神淡路大震災の体験が自分の価値観、人生観を大きく変えた。
その年の統一地方選挙は神戸は被災地のため7月に投票がずれ込んだ。
若い20代、30代の仲間6人と共に神戸市会議員選挙に挑んだが、6人全員落選した。
その後、東京へ戻り、らでぃっしゅぼーやの仕事を再開し、全国各地の会員拡大の仕事をした。
1998年にらでぃっしゅぼーやの今までの経営の悪化のため、大規模なリストラを行った。
250人の社員のうち100人の首切り、配置転換、出向などを人事担当として行った。
自らの手で仲間のリストラを行い最後は自分で自分の首を切り、退職した。
1998年の12月ことだった。
その頃、新党さきがけの武村正義代表からお声がかり、新しい「さきがけ」の事務局長を担うこととなった。何故かしら昔から武村代表には気に入られていたのだった。1999年1月から就任した。
しかし、その時のさきがけは国会議員が3名のみ。残念ながら、細川内閣、自社さ政権のときのような輝きはなかったが、日中沙漠緑化や財政赤字を憂うる活動など、まさに「小さくてもキラリと光る」存在感を国会で示していた。
武村正義代表が病気となり、総選挙で落選し、国会議員がゼロとなり、さきがけは中村敦夫参議院議員にバトンタッチし、私も一旦、永田町から足を洗うこととなった。(2001年7月)
そして、その年に自分が人生で一番つらい時期を過ごすなど、その時は想像すらできなかった。
つづきはまた次回。