今回の悲劇の1つは、災害が局地的であったということである。
神戸以外の都市(例えば大阪や尼崎)では従来通りの生活を送っており、何ら変化はない。
被災地では「なんで自分達だけが」という意識があり、あせりと精神的ストレスを増幅させている様に思われる。

今、必要なことは大胆な政治的決断ではないかと思う。
今、神戸に残っている人達は、神戸が本当に好きだから思う人達と、年をとってもうどこにも動きたくないと思っている人達と、行政や政治が何とかこの状況を変えてくれるだろうと思っている人達だ。

役所は前例主義だから「法」の前では「法以外の」意思決定できない。
「法」を変えることができるのは、「政治力」だけである。
全ての神戸市民がガレキの山と同居しながら苦しい生活を続けながら神戸の復興を目指してがんばれるのだろうか。

20~30万人いるといわれている、避難者全員に、仮設住宅を供給し、なおかつ、数年後の都市像の青写真を見せて、希望を持たせることができるのだろうか?

ヘタをすると、自分の意思で行動できる若い人間は全て神戸を離れてしまい、神戸は高齢者だけの都市になってしまわないだろうか?

 今、行政のトップは「今、非難されても何年後かにきっと評価される」そういう仕事、意思決定をしなければならない。ひょっとしたら、多くの人が一次産業のほうへと転換して、兵庫県の食料自給率をアップさせるよいチャンスになるかもしれない。神戸をエコシティに生まれ変わらせるよい機会かもしれない。

兵庫県の過密、過疎の問題を解決するよいチャンスかもしれない。本当に痛みがわかる、共有できる海外援助、協力ができるチャンスかもしれない。そのように前向きに考えることが必要であろう。

 市民は「気づき」つつある。自分たちが間違ったことを続けてきたのかということを。

次の社会、世代が生き続けていくための鍵はまさに今、政治に携わっている私たちに預けられた様な気がする。
(1995年3月ごろの考察です)
(つづく)