なんだかんだで11時ぐらいになったのであろうか、
私と妻も御影から移動することにした。弟が東灘区魚崎に住んでいる。位置関係でいうと御影から海の方へ南下することになる。国道、県道、市道はすでに自動車で渋滞をしているので私と妻、道代は歩いていくことにした。山手幹線沿いに繰り広げられた光景は未だ自分が見たことのない景色だった。例えて言うと、まるで戦後の焼け跡の街を連想させるものだったに違いない。ビルが崩れ、木造家屋が原形を想像させることもできないくらいに壊されている。家の中のものがすべて外にさらけ出されている。行き交う人々が不安そうに空と地面を見ている。

住吉にあるコープ神戸の本部が見事に崩れていた。壊れ方の迫力が違っていた。後に東京から他の都市からきた人達が、阪神高速が倒れた現場をみて口をそろえて言った言葉がある。「テレビや新聞で見るのと実際にみるのとでは迫力が違う。大きさが桁違いだ。絶句した」という。テレビのブラウン管の中で見える惨劇と実際の現場との基本的な差異。音、匂い、空気の流れ、大きさなど実際に見て感じるものと写真や映像が表現するものの差異と限界をいやというほど感じさせられるのだろう。

 約20~30分後、もう12時に近かったのだろうか、魚崎の弟のマンションに着いたあたりは木造の家が多く、そのすべてといっていいほど家は崩れていた。自分たちも家を借りるときこの近所の木造の一軒家を候補に入れていたことを思い出し、ぞっとした。家の選択が生死を分けることなど考えてはいなかったからだ。
 弟のマンションの扉には「魚崎小学校に避難しています」と書かれてあった。弟夫婦の無事が確認できた。私たちは、魚崎小学校まで行った。灘高校から魚崎小学校までの道のりもひどかった。ほとんどの家屋が倒壊し、瓦礫が道を塞いでおり、大きなマンションも傾いていた。ここだけでも相当の死者がいるのだろう。
 ようやく魚崎小学校の校庭についた。すでに避難している人たちが大勢おり、この中から弟たちを見付け出すのは不可能かと思った。しかし、校庭の真ん中にぽつんといたのは妹の政恵だった。「無事だったんだね。」
「お兄さんたちも無事で、お母さんからも電話があって心配していましたよ」
「正樹はどこにいったのかい」
「まだ倒壊家屋の中に人が生き埋めになっているので助けにいきました」
「そうか、無事でなによりだ。政恵ちゃんの自転車を貸してくれるかい」
「はい、いいですよ」というやりとりをして、道代と夕方ぐらいに自宅のマンションで落ち合おうと約束をしてそこを別れることにした。
というのも、まだ安否を確認しなければならない人がたくさんいるからだった。
(つづく)