まもなく、阪神淡路大震災から20年を迎える。
昨年、個人的なメモをもとに3回ほどこのブログで連載したが、途中で終わってしまった。
やはり、あの震災で生かされて、そして東北で東日本大震災の支援活動もかかわった自分としては、震災を風化させず、語り続けていかなければならないと再び強く感じた。山田バウさんの死も背中を強く押された気がした。
よって、再び、個人的なメモを続けることにする。
最初の3回は昨年このブログに掲載したが、初めての方もいると思うので、再掲することにした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下の文章は、1995年1月17日、阪神淡路大震災を神戸市東灘区御影町にて被災した、筆者の備忘録的未発表原稿に若干の修正を加えて、発表することとした。当時は結婚して1年未満、地元選出の衆議院議員の秘書をしていた。
何故、発表しようとしたかは、被災した神戸市民として、震災を風化させないためにも記録を残そうと思ったのが動機。何回かにわけてアップする予定。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第1回【巨大地震発生】
あの日の月は一生忘れない。
あの日というのは、1995年1月17日の月だ。
震災発生日に東灘区から神戸市役所に向かう車の中からみた月が今までに見たことも無い大きさで、不気味なオレンジ色に輝いていた。
21世紀にむけてあと5年、これから困難な日々の連続であろうことを予感させる月だった。
私はあの日の朝、つまり地震があったときは、東灘区御影町の自宅のマンションで眠っていた。妻の道代と一緒だった。突然の大きな揺れで目がさめた。意外と冷静だった。昨晩小さな地震があったのでいやな感じはしていた。道代は叫んでいたらしい。自分は必死で「落ち着け。落ち着け」と叫んでいたらしいが、覚えていなかったので相当あせっていたのだろう。
私たちはマンションの最上階(5階)にすんでいたので、揺れは激しかった。東の方向にマンションが倒れそうな感覚に襲われた。「マンションが倒れたら、命はないな」と以外と冷静に判断している自分に気がついた。ずいぶん長く揺れたように感じたが、揺れるだけ揺れて、何分か後におさまった。家の中は恐らく滅茶苦茶になっているのだろう。電気がつかず被害状況を確認することはできなかった。
とりあえず、マンションのお隣の安否を確認にベランダにでようとしたが、ベランダまでの道のりが想像以上に困難だった。歩くとガラスが割れる音がした。慎重に進んだがそれでも何箇所かはガラスで足を切ってしまった。
何故かベランダの窓の鍵をかけていたにもかかわらず窓が空いており、外気が部屋にはって来た。あらためて揺れのエネルギーに驚いた。
それでも、ようやくベランダにでて「和田さん無事ですか」と大声で叫んだ。「私のところは全員無事です。丸山さんのところは大丈夫ですか」という応答があった。「ありがとうございます。うちは大丈夫です」大原さんのところも無事だったらしい。とりあえずはほっとした。
さて、次はどうするか? 道代は横浜の実家に電話で無事を知らせた。
まだまだ周りは暗かったし、電気もやられている。ここで無理をして歩き回っても怪我をするだけだ。明るくなってから活動しようと思い再び寝床へ入り布団にくるまり明るくなるまでまった。その間にも何度か余震があり恐怖におののいていた。外では狂ったように犬がほえていた。今年はきっといろんな意味で「事件」が多いだろうと思っていたところだ。まさか、神戸に地震があるなんて。多くの神戸市民は同じ思いだったであろう。妻の道代も布団の中で「地震がないから神戸に来たのに…」とつぶやいていた。
第2回【想像を絶する街の様子】
徐々に夜があけてきた。さあもう動けると思い寝床から出て部屋を見渡した。
予想通り、すべての家具が倒れて、食器類も粉々だ。冷蔵庫も本棚もすべて倒れていた。自分たちの寝室に大きな家具がなかったのが救いだった。
再びベランダへ行き、外の景色を見た。
思わず息を飲んだ。
JRの高架が落ちている。
JR住吉駅の方向から煙が上がっている。
回りの家々が爆弾でも落とされたかのようにくずれている。
マンションの前の家の石垣がすべて崩れ道路をふさいでいる。
山手幹線の道路が地割れでぱっくりと口を開いている。
人々が着の身着のままで外に出ている。
想像以上の出来事が起こっていたのだ。
「これはえらいことになった」という気持ちだけが一杯で今、何をすべきなのかわからなかった。
しばらくするとマンションのドアをたたく音がした。
高見代議士の弟のしんじ君がいた。
「危ないから、早く避難して」と彼は叫んでいる。
私は「ありがとう」「代議士やお母さんは無事か?」と尋ねた。
しんじ君は「みんな無事だ。自分たちはこれから灘の避難所に行くので、丸山君たちも早く避難して」といってくれた。
そうこうしているうちに回りがガスくさくなってきた。
これは本当にやばいと思って妻、道代と一緒にマンションを降りた。
第3回【おばあちゃんを救え!】
「メイナー御影」マンションの西側の駐車場にはすでに多くの人達が避難をしていた。
マンション隣の酒屋さんの木造の家が崩れており一階部分が完全に埋っていた。
「この瓦礫の下に、おじちゃんとおばちゃんが埋まっています。どうか助けてください」という声がした。近所の人達が何人かでおばあちゃんの救出にあたっていた。自分もその救出部隊のなかに入り顔がかろうじて見えているおばあちゃんを救おうとした。
「救急車はまだか!」
「レスキュー隊はどうしている!」
そんな声があちらこちら聞こえている。
おそらく神戸市内の全域で同時多発的にこのような事態が発生しているのだろう。
この時はまだ震源地がどこかもわからかったが相当広域で被災しているのだろうと想像していた。
家が崩れ下敷きになっている人達を自分たちで救い出さなければならないことは誰もが気持ちのなかにあった。大きな梁におばあちゃんははさまれており、悪いことにスプリングのよくきいたベッドの上に埋まっているから梃も使えない。
思い思いの道具を皆の家から持ち寄り作業に当たったが、人力しか使えないので作業は思うように進まない。
「おばあちゃんしっかりするんやで、もう少しで助かるからな」と私は声をかけた。
「足が痛い、足が痛い、助けて、助けて」
何ともいえない時間がどんどんすぎていく。
鋸、バール、サンダー、盤旋カッターなど、いろいろな道具を使い、延べ15人ぐらいの人間がかかわったにもかかわらず、作業は遅々として進まない。
大きな梁をのこぎりで切ろうと試みたが、これもうまくいかなかった。
おばあちゃんの顔に埃がかかるのでタオルでふきながら作業をつづけた。
タオルを濡らすための水もでない。
自宅の風呂の水があったことを思いだし、妻道代にバケツでふろの水を汲むよう頼んだ。おばあちゃんがものすごい力で私の手を握る。
こんな力がこの老人にあるのかと驚くほどの力だ。
なんとか早く救い出さないとこの下におじいちゃんも埋まっているらしい。
道代が風呂の水を汲んで戻ってきたとき、高見代議士が現場に来た。
自分の部屋まで安否を確認しに来てくれたのだ。
「丸、無事だったのか。部屋にだれも居なかったので心配したぞ」
「どうもありがとうございました。ご家族の方はみな無事でしたか?」
「ああ、大丈夫だ」「俺のほうは、ずっと東京と連絡をとっている。たいへんな災害になった。」
「代議士、敦賀の原発は大丈夫だったのでしょうか?」
「それは心配ない」
「丸山はここで救助活動を続けてくれ、俺はこの状況を報告し続ける。災害本部を事務所に急遽設置するので、後で連絡をとりあおう」といって代議士は移動した。
さすがに昔から危機的状況には強い人だ。
政府の連絡は代議士に任せておけば大丈夫だと思った。
しかし、救出作業のほうは一向に進まない。
皆もあせりが見えてきた。
医師もやってきた。
ようやく、おばあちゃんを無事救出出来たのは10時近くのことだった。
4時間近くかかった計算になる。
おばあちゃんを家族が病院に運びその場は一段落した。
しかし、まだおじいちゃんがこの下に埋っているのだった。
家族の人も「皆さんありがとうございました。もうこれ以上は結構です。恐らくおじいちゃんはもうだめでしよう」と話していた。
残念ながら救出部隊は解散した。
皆、残された時間と労力を助かる可能性のある人を救おうということになった。
酒屋の若いご主人は自分のおじいちゃんがその場でまだ埋まっているので掘り続けようとした。
自分も手伝う旨ことを伝えると、「ありがとうございます。しかし、恐らくもう祖父は生存の可能性はないでしよう。他のどなたかまだ生存の可能性のある人を助けるお手伝いしてあげてください。」と言った。
辛い気持ちをやっとの思いででた一言。
彼の気持ちを察すると何も掛ける言葉がなかった。
(つづく)
昨年、個人的なメモをもとに3回ほどこのブログで連載したが、途中で終わってしまった。
やはり、あの震災で生かされて、そして東北で東日本大震災の支援活動もかかわった自分としては、震災を風化させず、語り続けていかなければならないと再び強く感じた。山田バウさんの死も背中を強く押された気がした。
よって、再び、個人的なメモを続けることにする。
最初の3回は昨年このブログに掲載したが、初めての方もいると思うので、再掲することにした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下の文章は、1995年1月17日、阪神淡路大震災を神戸市東灘区御影町にて被災した、筆者の備忘録的未発表原稿に若干の修正を加えて、発表することとした。当時は結婚して1年未満、地元選出の衆議院議員の秘書をしていた。
何故、発表しようとしたかは、被災した神戸市民として、震災を風化させないためにも記録を残そうと思ったのが動機。何回かにわけてアップする予定。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第1回【巨大地震発生】
あの日の月は一生忘れない。
あの日というのは、1995年1月17日の月だ。
震災発生日に東灘区から神戸市役所に向かう車の中からみた月が今までに見たことも無い大きさで、不気味なオレンジ色に輝いていた。
21世紀にむけてあと5年、これから困難な日々の連続であろうことを予感させる月だった。
私はあの日の朝、つまり地震があったときは、東灘区御影町の自宅のマンションで眠っていた。妻の道代と一緒だった。突然の大きな揺れで目がさめた。意外と冷静だった。昨晩小さな地震があったのでいやな感じはしていた。道代は叫んでいたらしい。自分は必死で「落ち着け。落ち着け」と叫んでいたらしいが、覚えていなかったので相当あせっていたのだろう。
私たちはマンションの最上階(5階)にすんでいたので、揺れは激しかった。東の方向にマンションが倒れそうな感覚に襲われた。「マンションが倒れたら、命はないな」と以外と冷静に判断している自分に気がついた。ずいぶん長く揺れたように感じたが、揺れるだけ揺れて、何分か後におさまった。家の中は恐らく滅茶苦茶になっているのだろう。電気がつかず被害状況を確認することはできなかった。
とりあえず、マンションのお隣の安否を確認にベランダにでようとしたが、ベランダまでの道のりが想像以上に困難だった。歩くとガラスが割れる音がした。慎重に進んだがそれでも何箇所かはガラスで足を切ってしまった。
何故かベランダの窓の鍵をかけていたにもかかわらず窓が空いており、外気が部屋にはって来た。あらためて揺れのエネルギーに驚いた。
それでも、ようやくベランダにでて「和田さん無事ですか」と大声で叫んだ。「私のところは全員無事です。丸山さんのところは大丈夫ですか」という応答があった。「ありがとうございます。うちは大丈夫です」大原さんのところも無事だったらしい。とりあえずはほっとした。
さて、次はどうするか? 道代は横浜の実家に電話で無事を知らせた。
まだまだ周りは暗かったし、電気もやられている。ここで無理をして歩き回っても怪我をするだけだ。明るくなってから活動しようと思い再び寝床へ入り布団にくるまり明るくなるまでまった。その間にも何度か余震があり恐怖におののいていた。外では狂ったように犬がほえていた。今年はきっといろんな意味で「事件」が多いだろうと思っていたところだ。まさか、神戸に地震があるなんて。多くの神戸市民は同じ思いだったであろう。妻の道代も布団の中で「地震がないから神戸に来たのに…」とつぶやいていた。
第2回【想像を絶する街の様子】
徐々に夜があけてきた。さあもう動けると思い寝床から出て部屋を見渡した。
予想通り、すべての家具が倒れて、食器類も粉々だ。冷蔵庫も本棚もすべて倒れていた。自分たちの寝室に大きな家具がなかったのが救いだった。
再びベランダへ行き、外の景色を見た。
思わず息を飲んだ。
JRの高架が落ちている。
JR住吉駅の方向から煙が上がっている。
回りの家々が爆弾でも落とされたかのようにくずれている。
マンションの前の家の石垣がすべて崩れ道路をふさいでいる。
山手幹線の道路が地割れでぱっくりと口を開いている。
人々が着の身着のままで外に出ている。
想像以上の出来事が起こっていたのだ。
「これはえらいことになった」という気持ちだけが一杯で今、何をすべきなのかわからなかった。
しばらくするとマンションのドアをたたく音がした。
高見代議士の弟のしんじ君がいた。
「危ないから、早く避難して」と彼は叫んでいる。
私は「ありがとう」「代議士やお母さんは無事か?」と尋ねた。
しんじ君は「みんな無事だ。自分たちはこれから灘の避難所に行くので、丸山君たちも早く避難して」といってくれた。
そうこうしているうちに回りがガスくさくなってきた。
これは本当にやばいと思って妻、道代と一緒にマンションを降りた。
第3回【おばあちゃんを救え!】
「メイナー御影」マンションの西側の駐車場にはすでに多くの人達が避難をしていた。
マンション隣の酒屋さんの木造の家が崩れており一階部分が完全に埋っていた。
「この瓦礫の下に、おじちゃんとおばちゃんが埋まっています。どうか助けてください」という声がした。近所の人達が何人かでおばあちゃんの救出にあたっていた。自分もその救出部隊のなかに入り顔がかろうじて見えているおばあちゃんを救おうとした。
「救急車はまだか!」
「レスキュー隊はどうしている!」
そんな声があちらこちら聞こえている。
おそらく神戸市内の全域で同時多発的にこのような事態が発生しているのだろう。
この時はまだ震源地がどこかもわからかったが相当広域で被災しているのだろうと想像していた。
家が崩れ下敷きになっている人達を自分たちで救い出さなければならないことは誰もが気持ちのなかにあった。大きな梁におばあちゃんははさまれており、悪いことにスプリングのよくきいたベッドの上に埋まっているから梃も使えない。
思い思いの道具を皆の家から持ち寄り作業に当たったが、人力しか使えないので作業は思うように進まない。
「おばあちゃんしっかりするんやで、もう少しで助かるからな」と私は声をかけた。
「足が痛い、足が痛い、助けて、助けて」
何ともいえない時間がどんどんすぎていく。
鋸、バール、サンダー、盤旋カッターなど、いろいろな道具を使い、延べ15人ぐらいの人間がかかわったにもかかわらず、作業は遅々として進まない。
大きな梁をのこぎりで切ろうと試みたが、これもうまくいかなかった。
おばあちゃんの顔に埃がかかるのでタオルでふきながら作業をつづけた。
タオルを濡らすための水もでない。
自宅の風呂の水があったことを思いだし、妻道代にバケツでふろの水を汲むよう頼んだ。おばあちゃんがものすごい力で私の手を握る。
こんな力がこの老人にあるのかと驚くほどの力だ。
なんとか早く救い出さないとこの下におじいちゃんも埋まっているらしい。
道代が風呂の水を汲んで戻ってきたとき、高見代議士が現場に来た。
自分の部屋まで安否を確認しに来てくれたのだ。
「丸、無事だったのか。部屋にだれも居なかったので心配したぞ」
「どうもありがとうございました。ご家族の方はみな無事でしたか?」
「ああ、大丈夫だ」「俺のほうは、ずっと東京と連絡をとっている。たいへんな災害になった。」
「代議士、敦賀の原発は大丈夫だったのでしょうか?」
「それは心配ない」
「丸山はここで救助活動を続けてくれ、俺はこの状況を報告し続ける。災害本部を事務所に急遽設置するので、後で連絡をとりあおう」といって代議士は移動した。
さすがに昔から危機的状況には強い人だ。
政府の連絡は代議士に任せておけば大丈夫だと思った。
しかし、救出作業のほうは一向に進まない。
皆もあせりが見えてきた。
医師もやってきた。
ようやく、おばあちゃんを無事救出出来たのは10時近くのことだった。
4時間近くかかった計算になる。
おばあちゃんを家族が病院に運びその場は一段落した。
しかし、まだおじいちゃんがこの下に埋っているのだった。
家族の人も「皆さんありがとうございました。もうこれ以上は結構です。恐らくおじいちゃんはもうだめでしよう」と話していた。
残念ながら救出部隊は解散した。
皆、残された時間と労力を助かる可能性のある人を救おうということになった。
酒屋の若いご主人は自分のおじいちゃんがその場でまだ埋まっているので掘り続けようとした。
自分も手伝う旨ことを伝えると、「ありがとうございます。しかし、恐らくもう祖父は生存の可能性はないでしよう。他のどなたかまだ生存の可能性のある人を助けるお手伝いしてあげてください。」と言った。
辛い気持ちをやっとの思いででた一言。
彼の気持ちを察すると何も掛ける言葉がなかった。
(つづく)