レ・ミゼラブルについて | マルフジノート

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SALVE!(ようこそ)

皆様、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

「レ・ミゼラブル」(2012/イギリス/トム・フーバー)があまりにも評判が良いので正月に見に行ってきました。
ミュージカルのよさががまったくわからない(その教養が無い為)せっかちな私には全て歌の台詞は少々イライラしてしまった。(ミュージカル版の完全映画化と宣伝されているのだから承知の上だが)それでも冒頭のスペクタルなシーンから引込まれていき面白かった。
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昨年「別れの曲」がきっかけで興味を持ち照明の歴史関係の本を正月に読んでたら「闇をひらく光:19世紀における照明の歴史」(1983/法政大学出版/ヴォルフガング・シヴエルブシュ/小川さくえ訳)という本に「レ・ミゼラブル」や原作者のヴィクトル・ユーゴー(1802~1885)の当時の記事まで載せられていた。

それは「街灯」について述べられた項で当時のパリの街灯について語られている。
当時のパリは大都市で唯一街灯が整備され、街路の敷石のサイズ、パンの焼き方までもジャベール警部じゃないけれどそれら全て警察が統治していたようである。何故街灯が整備されていたかというと治安維持のため、この映画では出てこなかったと思うがガヴローシュ少年が石を投げ街灯を破壊するストーリーは革命者側からすれば当然でこれと映画のエンディングに登場するバリケード、あらゆる家具や建具、樽、箱などつかわれたらしく、敷石もはがされバリケードや武器に転用されたようでこのバリケードと街路の破壊により制圧軍もこれには手を焼いたようである。

敷石についてヴィクトル・ユーゴーは
「敷石は民衆のもっとも偉大な象徴である。さんざん踏みつけられるが、最後にはひとの頭を打ち砕く」
と敷石と民衆を掛け合わされた上手い書きこみである。

話はここで街灯に飛躍しますが照明という事ではガスをいち早く照明(ガス灯)に導入しロンドンの方が個人レベルでは普及していたようであるが街レベルのではパリが一番であった。
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(闇をひらく光:19世紀における照明の歴史より抜粋)

この時代街を昼のように照らすいろいろな試みがなされていたようです。
アメリカのデトロイト(1885年頃?)では高さ50mの光の塔(タワーライティング)を122基も実際配置(都心部で300m~周辺部で1000m間隔)していたようである。
約30年間でこの試みは終わったが都市全域にタワーライティングした風景がどういうものだったのかとても興味深い。
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(闇をひらく光:19世紀における照明の歴史より抜粋)

同時代パリでは1889年の万国博覧会の記念碑的建物としてエフェルと最終的にはりあった「太陽の塔」(1885/電気技師セブロ+建築家ジュール・ブルデ)はパリ全域を照らす高さ360mの照明塔計画であった。落選理由は費用がかかるためだったようである。街を照らす用途の建築物は魅力的である。
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(闇をひらく光:19世紀における照明の歴史より抜粋)

「レ・ミゼラブル」の時代は照明も革命の時代であったようである。
さて話を映画に戻します。「レ・ミゼラブル」は映画だけでもたくさんリメイクされています。
日本でも「ああ無情」のタイトルで何作かあります。
これを機会にジャンギャバン主演(1957/フランス+イタリア/ジャン・ポール・ル・シャノワ監督)のもの見てみたいと思います。
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この映画鑑賞してから気がついたのですが関西人がミュージカルのように歌いながら話すと必ず月亭可朝になる。「ボインの歌」もミュージカルからきているのか?それなら多少ミュージカルの素地は私にもあることになる。