多様な崇敬を顕す内宮境内を巡る〜冬至丹後元伊勢行(6) | 日々のさまよい

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大江山口の元伊勢内宮皇大神社へ~冬至丹後元伊勢行(5)←(承前)

 

 

 

 

参道の石段から左へ入ると、元伊勢の厄神さんが坐します。
左奥のベンチみたいな横長の石には、「カネのなる石」との看板があります。

 

 

 

 

元伊勢の厄神さん
・・
御門(みかど)神社

 

元伊勢の厄神さんは、天岩戸で天照大神をお護りしたトヨイハマドの神で、わが国の厄除神の本宗です。八方除の神。御社殿は、天地根元造、竹の御柱という古式造です。
節分に厄除祭を行い、三鬼打、カワラケ割り神事などを行います。
金のなる石は、石で打つと金の音が鳴る奇石(くわいし)です。

 

元伊勢内宮 皇大神社

 

天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神である

Wikipedia/天石門別神

 

 

 

 

御門神社の向かって右には、注連縄の張られた岩戸(横穴式石室)。
その奥のこんもりとした土手も気になります。

 

 

 

 

境内の案内看板。

 

元伊勢内宮 皇大神社

 

(御祭神) 天照皇大神 (あまてらすすめおおみかみ)
(御由緒)
人皇第十代崇神(すじん)天皇三十九年(紀元前五十九年)に 「別に大宮地(おおみやどころ)を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠(とわ)にお祀りする聖地を求め、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)御杖代(みつえしろ)となり給い、それまで奉斎されていた倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)を出御(しゅつぎょ)されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九年の遥かな昔であった。

そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸(ごせんこう)になり、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余か所)を圣て、五十四年後の人皇第十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮の元宮(もとみや)として「元伊勢(内宮ないく)さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。

 

(例祭日)
四月二十六日

 

(恒例祭事)
元旦祭一月一日
節分祭二月三日
立春祭二月四日
八朔祭九月一日

 

 

 


豊受大神社と同様の黒木鳥居。
おそらく、全く同じ仕様かと思われます。

 

 

 

 

奥が本殿、手前がその拝殿。


本殿の鰹木は、伊勢の内宮と同じ10本あります。
ちなみに豊受大神社の鰹木は、これも伊勢の外宮と同じ9本でした。

 

サチエは健気にご紹介のポーズ(笑)

 


皇大神社(こうだいじんじゃ)
神:天照大神(あまてらすおおみかみ)
摂社 (脇宮):天手力雄命(
たぢからおのみこと)社・栲機千々姫(たくはたちぢひめ)社
・・・社:計83社


Wikipedia/皇大神社_福知山市

玄松子の記憶/皇大神社

凡海郷/皇大神社~古神道の聖地~

丹後の地名/元伊勢内宮:皇大神社(こうだいじんじゃ)福知山市大江町内宮宮山

 

 

 

 

外宮にもあった龍燈の杉ですが、内宮にもありました。


こちらは樹齢2000年と推定されているそうですが、火災と台風で枯死する寸前となって樹勢回復施術が行われ、今はようやく半分くらい生きているそうです。

 

 

 

 

龍灯の杉
節分の深夜、龍神が燈火を献ずると言い伝えられている。
幹回り約七米、高さ約三十米、樹令二千年と推定される御神木。

 

 

 


本殿の拝殿前、後ろは天手力雄命社。

参拝を終えてから何かへ聞き耳を立てるサチエ。

 

 

 


本殿。
本格的な冬到来前の雪が軽く積もっています。

 

 

 


本殿横で、デッカイぞ~ポーズ(笑)

 

 

 

 

これも巨大な御神木です。

 

 

 

うっすらと、全身が苔むしています。

 

 

 

 

變若水(をちみづ)の榎。

 

変若水(おちみず、をちみづ)とは、飲めば若返るといわれた水。月の不死信仰に関わる霊薬の一つ。人間の形態説明の一部としても形容される。

Wikipedia/変若水

 

昔元伊勢内宮には、神霊の憑代として崇められた大榎があったという。これにかわり、昭和六十二年三月十五日榎祭りを行って四本の榎の御神木が復活した。御本殿左右の日影榎、水影榎はお伊勢さんよりヘリコプターでお還りになった。広前には、大直日榎(大本教献木)、変若水榎(世界救世教献木)が植えられた。

元伊勢内宮皇大神社パンフレット

 

何だか皇大神社は、新興宗教に絶大な人気があるようですね。
特に古神道の聖地とされる所以は、

古代より皇大神社一帯は聖地とされていましたが、明治以後、聖地としての色合いは一層鮮明になりました。事の発端は大本開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊勢と崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行った事に遡ります。

凡海郷/皇大神社~古神道の聖地~

とのこと。

 

Wikipedia/古神道

 

 

 

 

末社を巡るため、境内の奥へと進みます。
御若叡(みわかえ)の森、君が代碑とさざれ石。

 

 

 

 


さざれ石の由来

「君が代」の歌に唱われた「さざれ石」は、石灰岩質であり、成長する奇岩で大小の石を凝縮して巨岩をつくってゆく。
そのめでたさを托した名歌が少なくない。岐阜県揖斐の山中より産する。「君が代」の歌は、もと惟喬親王にささげた「わが君は」の歌を元歌として出来たと云う。
苔庭、さざれ石に因み、天皇御在位六十年を記念し、御若叡の森を飾ることにした。

 

 

 


本殿と摂社をぐるりとコの字に取り囲む末社群、向かって左手。

 

 

 


末社群、こちらは後方から右手側。

 

 

 


天候は、青空も見えながら曇りというか、何だかよく分からない空模様です。

 

 

 


天皇神道の岩長姫命社。

 

 

 

 

奉斎 岩長姫命社 由緒

 

天地根源(テンチコンゲン)元津(モトツ)御祖大神(ミオヤノオオカミ)、天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)、司命神(シメイジン)岩長姫命(イワナガヒメノミコト)は、昭和四十四年十月八日、神奈川県は藤沢の地、伊勢山御座所に命代(ミコトシロ)渡邊兼子をもって降臨、〝言わず語らず根を出して、不二の峰より天降り、禊ぎ祓えと清めなん、天知る地知る根をはりて、時期致来の女神花〟と神示。


今日の地球存亡の重大時期に、元津御祖大神が救世主として、岩長姫命を地上浄化、世直し、世造りの司命神として世にお送り給えたのであります。

 

〝天照大神、神意を奉戴し、萬世栄光神魂をもって、人類の生命に輝く心の鏡の神殿の永遠なることを知り、宇宙に結ぶ大自然の法則に照し、生命の言霊(ことだま)をみがき、人類に生命の愛の法憲をもって、崇高なる天性の尊厳に生きよ、八紘一宇の祭政の基柱となせ、血脈の道、皇統連綿たる全人類の生命祭政一致は、天皇を知ろしめすことなり〟と神示。

 

〝神の御声で我が魂をよびおこせ、萬ず真人、萬人祭司〟と示されました。

 

昭和四十八年四月一日、岩長姫命社、天龍八岐龍神社(天龍下りて御魂代おさめ祀りて世は平和、と神示)を当神宮元伊勢に、建立、鎮座し、天皇神道が顕現したのであります。

 

この案内板によると、1969年(昭和44年)に神奈川県藤沢市の伊勢山で渡邊兼子さんに岩長姫命が神懸かり、1973年(昭和48年)に岩長姫命社と天龍八岐龍神社をこの地に建てて天皇神道が発足した、ということのようです。

 

この伊勢山は、かつて伊勢神宮が祀られていたとの伝承があるとのこと。
Wikipedia/伊勢山_(藤沢市)

 

どのような経緯で、1973年当時すでに神社本庁へ参加していた皇大神社の境内へ社殿を建てられることになったのか、ちょっと興味が湧きますね~。

 

ちなみに調べてみましたら、このような古書が見つかりました。

『天照皇大御神司命神 岩長姫命神示録』和装1冊・珍資料
〔渡辺兼子が拝受した岩長姫命の神示を収録、福知山の天皇神道元伊勢皇大神宮の基盤をなす神示集〕

著者名:神示拝受者著作権者/渡辺兼子、編纂者/小笠原清隆
出版社:天照皇大御神司命神岩長姫命伊勢山御座所(神奈川藤沢)
発行年:昭和46
細:和装1冊、B5判、原題箋、本文袋綴、1+口絵1+2+1+128頁
大分類:宗教
中分類:心霊
格:25,500円
販売店:古書杏城

 

おそらく、あの社務所には原本が保存されているのではないでしょうか…

 

 

 


境内を一巡して、本殿へ一揖。

 

天皇神道の天龍八岐龍神社へは行かずじまいでした。
そもそも存在を知らなかったのですが、知っていたとしても行ったかどうか、微妙ですけど(苦笑)

 

 

 


杜の上に広がる曖昧な雲行きを仰ぎ見ます。

 

次は、日室嶽(別名:日浦岳・日裏岳・日室山・岩戸山・城山…)の遙拝処を経て、天岩戸神社へと向かいます。

 

 


(つづく)→ 日室嶽を遙拝し岩戸渓谷へと下る〜冬至丹後元伊勢行(7)​

 

 

 

 

 
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