嵐山と桂川と櫟谷宗像神社〜初秋の松尾大社(7・最終回) | 日々のさまよい

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北河原町から京都バスに乗って嵯峨中ノ島に到着し、初見となる櫟谷宗像神社の方向を、あれが杜だろうと見当をつけます。




高級旅館の建ち並んだ風情ある川縁の道を歩いて行くと、神社名の刻まれた石柱よりも「嵐山モンキーパーク」の看板が目立っています(笑)

このモンキーパークは外国人観光客にやたら人気のようで、TVで紹介されているのを見ていましたから、ここなのか!と驚きました。
何しろその入り口が、櫟谷宗像神社の石段を上がり鳥居をくぐった境内にあるのですから。

そこで何故か、お猿の顔と自分の顔を並べようと背伸びするサチエ。





ここが櫟谷宗像神社ですよ~、と訴えるように石柱へ寄り添うサチエ。




「嵐山モンキーパーク」の看板と並んだ櫟谷宗像神社の案内板。

ご祭神の沖津島姫命とは、宗像大社の沖津宮(おきつぐう)に坐す田心姫(たごりひめ)です。
けれども、市杵島姫命は宗像大社の辺津宮 (へつぐう)に坐すので辺津島姫かなと思いますけれど、なぜか古事記では沖津島姫とされており、三女神のもう一柱である湍津姫(たぎつひめ)が中津宮(なかつぐう)に坐すも辺津島姫だそうです。

ただし日本書紀では諸説紹介されているようで、何が何だか正解は分かりません。




秋の陽光を背に受け、サチエが元気を取り戻したようです。
姫神さまのお力に感謝。

ちなみに、松尾大社ホームページでは、「櫟谷・宗像神社」という表記になっていますけれど、鳥居の額には「櫟谷神社 宗像神社」となっています。

解説によると、このようなことでした。

現在は、二社同殿で御鎮座されており御祭神は、櫟谷神社が奥津島姫命、宗像神社が市杵島姫命になっている。
この二神は異名同神(紀の一書)と見られていますが、天智天皇の七年(668)筑紫の宗像から勧請されたものと伝えられています。
櫟谷神社は嘉祥元年(848)従五位下、貞観十年(868)正五位下の神階を授けられた延喜式内社であり、宗像神社は、貞観十二年葛野鋳銭所に近き故を以って新鋳銭を奉納されていたことが三代実録に見える由緒ある神社です。
両社とも大堰川(桂川)の水運の安全を祈って祀られたものと思われ、明治十年に当松尾大社の摂社となりました。




社殿のお姿。
時刻が午を回っているので、嵐山を背に東向きの社殿は日陰となっています。





社殿の由緒書。
内容は表の案内板と同じです。


さてここで、もともと松尾大社のご祭神が、大山咋神と市杵島姫命の二柱ですから、これも松尾大社ホームページの解説で見てみると、

大山咋神(おおやまぐいのかみ)は、古事記の記述によると、須佐之男神(すさのおのみこと)の御子である大年神(おおとしのかみ)の御子とあらわされております。
(中略)山の上部(末)に鎮座されて、山及び山麓一帯を支配される(大主)神であり、近江国の比叡山を支配される神(現日吉大社)と、ここ松尾山一帯を支配される神(現松尾大社)がおられたと伝えています。

市杵島姫命は、中津島姫命(なかつしまひめのみこと)の別名で(中略)福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。
おそらく外来民族である秦氏が朝鮮半島との交易する関係から、航海の安全を祈って古くから当社に勧請されたと伝えられております。

とのことですから、泰氏は入植した地域の地元神を根絶することなく尊重し、その上で自らの出自にちなんだ神を習合させて行くという方法で、遙か大陸から移動して来たことが分かります。

そもそも、泰氏の主祭神は太陽神であるアマテルであったでしょうし、それを祀るための神殿として木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ杜)があった筈なのですが、それをあっさり、かどうかは分かりませんけれど、天照皇大神としてアマテルそのものを朝廷へ献上してしまえるのですから、スゴイなあと感心します。




眩しい木漏れ陽が、社殿に降り注いでいました。

レンズに乱反射した光が、この聖地に横溢するエネルギー、まるで乱舞するオルゴンのようにも見えます。




渡月橋から桂川の上流を望む。




こちらは下流側。
とても良い天気で、人出も大変なものでした。


この桂川の流れが大阪湾から海へと繫がり、瀬戸内海を辿って玄界灘を越えると、遠く大陸へ続く海路であることが思われます。



(おわり)




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