先日、大泣きした娘であるが、、、。

 

 

 

大泣きのトリガーとなった案件、ものすごくいい感じに落ち着いた。

 

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娘の気持ちとしては、

 

本当はやりたい。でも、自信はない。でも、やっぱりやりたい。でも、ひとから悪口や陰口を叩かれるのは嫌だ。でも、ホントのホントはやってみたい。でも、でも、でも、、、。

 

このループに嵌まり込んで、グルグル。

 

 

「どうしたらいい?」

って訊かれても、いろいろと人間関係が絡んでいることなので、わたしには解決策が浮かばず。

 

なので、

「ずっとやりたいって言っていたことだし、チャンスがあるんだったら、『やりたい!』って意思表示はしてもいいと思うよ。けど、自分だけで決められることじゃないんだし、素直な気持ちで関係者同士、相談してみたら」

としか言えなかった。

 

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その件について、今日、娘から報告があり、、、。

 

思いがけず、なんとも美しい着地となったのである。

 

いいオトシドコロが見つかって、本当に良かった!照れ

 

久しぶりに、娘が大泣き。

 

繊細で傷つきやすく、ひとの言動が気にかかり、その場の雰囲気や空気感に影響される娘。

 

 

「気にしなければいいじゃない」

 

なんて無責任なことは言えないな。

 

気になるから、気に病むわけで。

いろんなことを感じ取ってしまうから、気になるわけで。

 

こまごましたものが溜まってきて、気の流れが詰まってしまうのね。

酸欠を起こしてしまうのね。

 

 

傷つけられるのが嫌だから、ひとを傷つけるようなこともできるだけしないよう気配りしている。

 

だから基本的には、娘のまわりのひとたちもやさしいし、やわらかい雰囲気のなかで生きているのだけれど、それでもときには、いきなりズケズケ踏み込んでこられたり、当て擦りをされることも。

 

100のうち、99がやさしくやわらかくても、たった1つの固いトゲに傷つけられることもあるよね。

 

 

 

そういうとき、娘は自宅で大泣きする。

 

わたしはどうすることもできず、ただ側で受けとめるだけなのだけれど。

 

大泣きしながら、溜まっているものを吐き出す。

 

そうやって、感情の整理。

自分の本音の確認。

くらったダメージからの回復。

 

 

ひとしきり大泣きして、いっぱい吐き出したら、ふと我に返る。

その表情は、まさに「素」だわ。

 

 

 

先のことは、こわいね。

将来のことは、こわいね。

 

だって、わからないんだもの。

 

 

こわい。

本当にこわいよね。

 

 

こうやってね、こわいまま進んでいくんだね。

 

 

 

ずっとずっと応援しているよ。

 

 

 

 

今回は、泣き止んだのを見計らったかのように、娘のスマホに電話着信が。

娘が尊敬しているひとからの、突然の電話だった。

 

こわいままでいいんだよ。

こわいまま進んでいこうね。

やれるだけやってみよう。

 

まさにそんなメッセージ。

 

 

しばしエアポケットに嵌まり込んでいた娘であるが、また足を踏み出す勇気が湧いたようだ。

 

 

電話、バッチリのタイミングだったね。

 

うん。

幸先よし。

 

 

感謝。

 

自分に子どもが生まれ、その我が子との関わりの中で、さまざまなことがフラッシュバックするのだけれど。

 

 

 

そのとき思うのが、

(どうして?)

(なんで?)

という疑問。

 

どうしてお父さんは、あんな態度をとったのだろう?

なんでお母さんは、怒り出したんだろう?

ちゃんと訊いたのに、どうして答えてくれなかったんだろう?

真剣に求めたのに、なんで応えてくれなかったんだろう?

 

自分に子どもができたからこそ、強くなる疑問。

 

 

 

あ。

もしかしたら、、、。

 

ふと浮かんだ。

 

 

 

わたしは第一子。

父も母も、初めての我が子を前に、

「この子がちゃんと自立できるよう、しっかり子育てしなければ!」と意気込んだに違いない。

 

それが親としての責任だと感じ、躍起になって「しつけ」をし、「子どもをコントロール」しようとしたんだろうな。

 

 

でも、子どもって、みんな違う。

育児書の通りになんていかないし、成長度合いは違うし、性格も違うし、向き不向きもそれぞれ違う。.

 

だから戸惑うことばかりなのだけれど、、、。

 

子育ての仕方は、その子が教えてくれると思うのよ。

 

 

うちの場合がまさしくそうで。

 

(そうされるのは嫌だ!)

(こうされると嬉しい!)

(この味は口に合わない!)

(いまは食べたくない!)

(お腹が空いた!)

(退屈だから遊んで欲しい!)

(いまは自分の時間だから放っておいて!)

などといった意思表現がハッキリしていたので、

 

「なるほど。そうですか。わかりました」

と、わたしは我が子の子育てを、我が子本人から学んだ。

 

そう。

こうして子に育てられ、だんだん親っぽくなっていくわけである。

 

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あ。思い出した。

 

子どもをあやすひとつとして、にらめっこするときのような変顔をしてみせて、子どもを笑わせようとするのがある。

でも、わたしがこどものころ、おとなのそういった変顔は、笑うどころか恐怖でしかなかった。

そういう顔をされたら、泣き叫んでいたように記憶している。

そして、おとなたちからは、

「せっかく笑わせようとしてあげたのに、可愛げのない子だね」

なんて言われたようだ。

ちなみに、我が子もわたしと同じで、変顔を嫌がった。

 

だって、そりゃそうでしょ。

変な顔を見せつけられるより、にっこり優しい笑顔のほうが心地いいに決まってるんだもの。

でも、変顔を見て、けらけら笑う子どももいるわけだから、ホントひとそれぞれだ。

 

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で、考えるに。

 

わたしの両親は、子育てを頑張ろうとはしたけれど、実際のところ上手くはいかなかった。

 

なぜならば、それは「世間の常識」といわれるものや「一般的」というものを握りしめ、そのまんま我が子へ適用しようとしたからだ。

 

平均から、はみだそうとすれば叱り、遅れているとみれば無理にでも引っ張り。

「自立心を養うことが大切」というお題目で甘えを許さず、とにかく子どもを定型発達させることを重要とした。

 

そうすれば、世間的にもOK。

親としての責任を果たせているとアピールできるし、平均的である、普通であるということに安心したかったのだと思われる。

 

、、、、もしわたしがそれらに適合するタイプならば、それほどの問題もなく、安定して育ったのかもしれないけれど。

上手くいかなかったね。

 

 

結論として。

わたしの両親は、子に育てられてるのが下手だった。

子育てられ下手な両親だった。

ということなのだろう。

 

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しかし、子どもというのは、凝り固まった概念をぶっ壊してくれる。

 

いまも、まだまだ学びの途中。

 

子育てられの、子育ては続く。