16年前の年賀状 ですが
正月早々 縁起でもない言葉を
並べて 家族からは辞めてくれと
言われながら 最近まで続けていましたが

私も 手術を経験したり
死を意識するような年に
なってしまいました

もはや死がいつ訪れるか
誰に言うでもないですが
伝えたい言葉 として
過去の年賀状を
時々 投稿したいと思います

 

この辺りから ワードで作成していますね

文章のみで 白黒になっています(^^)v🍀🌼👨

Word ワードのファイルが有りましたので PDF に変換し

それを JPEG に変換して投稿しました👨

スマートフォンで撮影したものではないので 文字が綺麗と思います 👨

 

🌼今までのパターンは あまりにも味気ないので

 

コラージュして 工夫してみました(^-^)/🍀👨🌼

文字が大きくなるように年賀状を4分割しています。

 

追記

”みにきたことを、たりきとゆう”

こちらからの、求め、工夫でないのが他力

苦難により、なにもかもとだえ、安心を求める、力尽きた時、

楽、安心がやって来ると言っているのですね。

 

追記
🌼あさましも ざんぎ も 歓 喜 も煩悩も

渾然と 一体になった

才市 の 南無阿弥陀仏 良いですね

 

自らのあさましの自覚と、慚愧、後悔に沈んだ日々

そこから、なにが才市に生じたか

知る由も有りませんが

おそらくは絶体絶命

自力から他力への転換

人生を覆す体験があったことでしょう。

(*^▽^)/★*☆♪🎵🍀🌱💨💨🌼👨

 

🌼盤珪禅師の不生禅もお勧めです(^-^)/🍀🌼👨

https://ameblo.jp/marucyan20197/entry-12481339535.html

掴む、わらをも無い

盤珪が、

成ろうとするものは、不生でござらぬ。
成ろうともせず、只不生で居るがよくござる。
それを得知りませいで、ひたものがあがいて、
脇稼ぎしまして、どうぞして不生に
なろうと解了します所で、心上に心を生ずと申す。

と言っていますが、

成ろうとするものは、”あるがまま、そのまま”でござらぬ。
成ろうともせず、只”あるがまま、そのまま”で居るがよくござる。
それを得知りませいで、ひたものがあがいて、
脇稼ぎしまして、どうぞして”あるがまま、そのまま”に
なろうと解了します所で、心上に心を生ずと申す。

と強引に置き換えれば、迷いの最中は”あるがまま、そのまま”が
まるで真逆になっていたりするものです。

”心上に心を生ず”となって、心がさらに対象物を作り出し、
”あるがまま、そのまま”でいれば良いものを、
さらに”あるがまま、そのまま”を重ねて、余計苦しくしているわけです。

ですから、”あるがまま、そのまま”が、そのまま落着すれば、終わりなんですが、
どうしても”あるがまま、そのまま”になろうとするから、やっかいなわけです。

”成ろうともせず、只”あるがまま、そのまま”で居るがよくござる。”
ができれば、これが他力と言う事であり、万物に証せられるという事になるでしょう。

ですから、これができれば、立った今、強迫性障害であろうと、
ぞんぞこの地獄の状態であろうと、心が完結し、落着と言うことになるわけです。

......

”全てこの世の流れに身をまかせてそのまま”と口では簡単ですが、
実際問題、行動的になかなかどうするのか、困難なことでしょう。

ですから、机上で、理論ずけても、殆ど無駄骨です。

只、あるだけで、是もまた、難しいわけですから。

”あるがまま、そのまま”とは、まさに恐ろしく困難だといえるでしょう。

この、どうしょうもない、ぞん底の、絶体絶命に立てば、
掴む、わらをも無い状態であり、
自然に成ろうとするものが途絶えであり、
無手であり、技巧もない、お手上げであり、無功徳であり、
まさに楽であり、安心であり、ありがたいと、こういえるでしょう。

 

 

ネットでの説明

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浅原才市(あさはら さいち、1850年(嘉永3年)2月20日 - 1932年(昭和7年)1月17日)は、
浄土真宗の妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。
「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、
「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介された。

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