盤珪が、

成ろうとするものは、不生でござらぬ。
成ろうともせず、只不生で居るがよくござる。
それを得知りませいで、ひたものがあがいて、
脇稼ぎしまして、どうぞして不生に
なろうと解了します所で、心上に心を生ずと申す。

と言っていますが、

成ろうとするものは、”あるがまま、そのまま”でござらぬ。
成ろうともせず、只”あるがまま、そのまま”で居るがよくござる。
それを得知りませいで、ひたものがあがいて、
脇稼ぎしまして、どうぞして”あるがまま、そのまま”に
なろうと解了します所で、心上に心を生ずと申す。

と強引に置き換えれば、迷いの最中は”あるがまま、そのまま”が
まるで真逆になっていたりするものです。

”心上に心を生ず”となって、心がさらに対象物を作り出し、
”あるがまま、そのまま”でいれば良いものを、
さらに”あるがまま、そのまま”を重ねて、余計苦しくしているわけです。

ですから、”あるがまま、そのまま”が、そのまま落着すれば、終わりなんですが、
どうしても”あるがまま、そのまま”になろうとするから、やっかいなわけです。

”成ろうともせず、只”あるがまま、そのまま”で居るがよくござる。”
ができれば、これが他力と言う事であり、万物に証せられるという事になるでしょう。

ですから、これができれば、立った今、強迫性障害であろうと、
ぞんぞこの地獄の状態であろうと、心が完結し、落着と言うことになるわけです。

......

”全てこの世の流れに身をまかせてそのまま”と口では簡単ですが、
実際問題、行動的になかなかどうするのか、困難なことでしょう。

ですから、机上で、理論ずけても、殆ど無駄骨です。

只、あるだけで、是もまた、難しいわけですから。

”あるがまま、そのまま”とは、まさに恐ろしく困難だといえるでしょう。

この、どうしょうもない、ぞん底の、絶体絶命に立てば、
掴む、わらをも無い状態であり、
自然に成ろうとするものが途絶えであり、
無手であり、技巧もない、お手上げであり、無功徳であり、
まさに楽であり、安心であり、ありがたいと、こういえるでしょう。