私の母の話をさせていただいても

よろしいでしょうか?


私の母は2022年2月2日に永眠しました。


母を天に還すことを決めたのは

私です。


母は戦前生まれ、8人兄弟の末っ子に生まれ、尋常小学校卒。

母はいつも自分は頭が悪いし、

学も無いからと寂しげに笑っていました。

戦争に行ったお兄さんが帰って来ていたら

女学校に行かせてもらえたのに、とも。

小学校時代もなにかと父親に用を言いつけられてまともに学校に行けていなかったので勉強は嫌いだったとも。

小学校を卒業すると女中奉公に出されて

20代も後半になると縁談を勧められ

父と結婚したとか。


結婚後も決して楽ではなかったようで。

父は左官職人で、腕はそれなりによかったと思いますが…とにかく雨が降ると仕事ができないと言ってほとんど家にいました。

梅雨時は地獄です。月に3日も働けない、

日給月給だからほぼ収入ゼロ。

私も子供ながら家にはお金が無いと

身に沁みるほどわかりました。

そんな家庭で、母はいつもあくせく働いていました。家事はもちろん、学歴がないのでできることが限られていると、早朝から新聞配達と牛乳配達、昼間はマンションの清掃員、夜はスーパーの清掃員。そして深夜の内職。

とにかくできることを詰め込んでいたような働き方で、でも決して愚痴は言わなかった。

私達兄弟は3人。母のおかげでお腹を空かせていることはありませんでした。

着る物は従兄弟達からの貰い物とかだったけど、食べ物も確かにミルフィーユかつだったけど、父の給料日(極少でも)には唯一の外食でとんかつ屋さんかお寿司屋さんへ連れて行ってもらいました。それが楽しみでした。


そんな無理がたたって、私の小学校卒業を目前にして母は過労で倒れました。

私は母が入院中に卒業式を迎え、友達は両親が式に参列している中、ポッチなのが堪らなく寂しかった。

並行して、中学校の入学準備もままならず、母は無理をして入院もギリギリまで早めてもらって退院してきました。入院費は祖母に借りたそうです。早めた理由は私の為と入院費がそれ以上嵩むと大変なことになるということだったようてす。


さすがに過労で入院したので、それ以降は母も無理はせず、父も少し改心して口だけはやさしい言葉を投げかけるようになっていました。


母は学という点では劣っていたのかもしれません。でも人としては誰にも負けない人だったと思います。




母は2017年にペースメーカーを埋め込んでます。その時は心臓が弱っていて、でももう高齢なので大きな心臓手術はやらないほうが良いだろうと医師と話し合って、弁膜症が見つかったのでカテーテル手術で置換しようかとなったのですが、大腿部からカテーテルを通すのには血管が途中で曲がりくねり過ぎていてできないとなり、かといって開胸手術もリスクが高過ぎるということで見送りに。

他に心臓の機能を改善する方法はないかと医師が模索してくださり、ペースメーカーに行き着きました。

最初の入院からペースメーカー入れて退院まで3ヶ月以上かかりました。

でも母も帰らなければという意思があり、リハビリもガンバったようです。


それから父が亡くなるまでは平穏に過ぎていました。


母が亡くなる前年、父が先に旅立ち、母は初めてひとり暮らしをすることになりました。

私もあとから気づいたのですが、そう言えば母は一人っきりになるのは初めてだったのだと。

父は自分が亡くなったら、母を兄と暮らすようにしてくれと言っていました。(兄は結婚しておらず独り暮らし)

父はわかっていたのかもしれません。

父が亡くなってから半年余り、私は母が何も言わないし、時々訪ねて行っても元気そうにして「大丈夫」と言っていたので気づきませんでした。

気が向けば昔馴染みのご近所のお宅に訪問してお茶をいただき、話をしてくると言っていましたし。


母は誰かのために(家族の為に)生きてきていたんですね。子供たちが独立したあとも父の面倒を見て、それが生きる全てのような人だったのです。

それが無くなったからか、がくんと体力も気力も無くなったのでしょう。みるみるうちに認知症が現れ進み、体力も落ちて駅まで歩くのも難しくなっていたようです。

買い物にもそうそう行けなくなっていたようで、家にある残された非常食のようなものを細々と食していた様子もあとから気づきました。悪循環で体力も落ちます。


それでもペースメーカーを入れてから、少しの体調の異変にも敏感になって、心臓あたりに違和感を感じるとかかりつけの医師の所へ通っていたようです。駅よりは家に近いのですが、その頃の母の歩みでは30分以上かかっていたようです。真夏の暑い日でも歩いて行くので、逆に熱中症の危険もあるような行軍となっていました。一度はフラフラになって病院に着いたらしく、看護師さんから電話が来たこともありました。


それからは週の半分くらいは私が車で1時間ほどの実家に通うようになり、ケアマネさんとも相談して母に週に2回、デイサービスに行ってもらうように手配しました。

これで週2回はお風呂に入れるし、週2回は確実にバイタルチェックをしてもらえるし、栄養バランスの良いものを食べられるということなので。

もう、しばらく前から食事は本当にごく僅かしか食べられないようになっている様子だったし、1日の半分くらいは寝ているような生活のようでした。


秋も深まった頃、デイサービスのヘルパーさんから「お迎えに行きましたが応答がありませんてした。」と連絡がありました。

ウェブカメラを覗くと画像で見られる範囲には母の姿は見られません。

急いで実家に行ってみると母が茶の間でコタツに潜ってぐったりとしていました。

声掛けしても返事はなく、

息はしています。

心臓も動いています。

とりあえず、脱水している可能性も考えられたので、コタツから引っ張り出します。

「痛い」

と反応がありました。

でもその後は息はしているけど目覚めません。

コタツの中で失禁していたのか、臭いと汚れを拭い、着替えさせて、布団に寝かせました。

母の様子を伺いながら

コタツ周りの掃除をして、

ケアマネさんに相談の電話をしてみました。


「救急車を呼んで!」

まだコロナ禍の中、なかなか救急車も来られません。


病院に運ばれて検査の結果、

母は“硬膜下出血”していたことがわかりました。開頭手術はせず、ドレーンにて排出させる方法を取ることにしました。

コロナ禍、面会も週に1回10分、家族代表の1人のみしか許されませんでした。

医師に任せるしかありません。


入院から3週間、血腫も取れて意識も取り戻し、ひとまず安堵。

リハビリも始まり、退院の日を考えるようになりました。

さすがにもう母を一人にしておくことはできないだろうと思い、家族と話し合い、私が実家に戻ることを決めました。

自分の実家ですから、戻ることにはそれほど抵抗感はありません。自宅に母を呼んで夫や息子に気を遣わせるより、母に気を遣わせるよりも一番良い方法だと思いました。


実家での母との生活を思い描いて準備をしていたのですが、病院から母がトイレで転倒して大腿骨骨折をしたと連絡がありました。

骨折はすぐに手術にて処置してもらえましたが、退院が延期されました。

入院中に母は90歳の誕生日を迎えました。

骨折してから食事は経管栄養になってしまいました。


週に一度だけ会う母はいつも寝ていて話すことができませんでした。


年末に差し掛かって、

医師から話があると呼び出し。

「病院でできることはもうありません。

経管栄養をサポートしてくれる施設に

移られることをオススメします。」

と言われました。

「もう、食事できないのかぁ。」

胃瘻はしないのはもちろん、

「口から食べれなくなったらお終い」

と母とは話していました。


私は

「退院して自宅に戻るという選択肢はありますか?」

と医師に訪ねました。

医師も私もその先のことはわかっています。

「そういう選択肢もありますね」

との返答。


心は決まりました。決まったと思いました。

そこからは病院の医療サポートの方と退院に向けての手配を話し合い、

訪問の医師と看護師の手配。(これは父がお世話になっていた方たちがいたのですんなりと決まりました。)

ケアマネさんにもその経過と今後のことを話し合い。(介護ベッドやヘルパーさん等の手配ですが、ヘルパーさんについては私がそもそもヘルパーの仕事をしていたので、ベッドとか設備関係のことがほとんどでした)


ケアマネさんと話したあと

“やっぱりこの決断は間違っていたのではないか?”

という気持ちが湧いてきて、

本当にこれで良いのか?

という気持ちと、

やっぱり点滴でもなんでも生きれる限りは生きていて貰わなければいけないのではないか?

という気持ちがゴチャゴチャに渦巻いていきました。

それを解消してくれたのは兄でした。

すべてを私に一任(悪く言えば丸投げ)してくれていた兄が

「もういいんじゃないかな。母もガンバって生きてきたんだから、もう楽にしてあげよう。」

私は救われました。


年が明け、1月下旬と母の退院日が決まり。

私はベッドの置き場所の為に実家の部屋の模様替え。何十年と動かされていなかったタンスなどを動かしたり、年始から汗だくで仕事をしました。築50年以上のボロ屋で畳も傷み放題。タンスも畳に食い込んでいて本当に動かないし。

どうにかこうにかベッドを置くスペースと、医師や看護師の導線を確保しました。


1月27日、

母を病院に迎えに行って、

手配してもらった介護タクシーで帰宅。

そのままベッドに。

寝間着に着替えさせた頃、

看護師さんが来られて

「お家に帰って来られてよかったね」

の声かけに母はほんの少し頷いていたようでした。

少し遅れて医師も来訪。

病院の医師が念の為とつけっぱなしにしていた、点滴用の留置針を抜いてくれました。

(家では点滴しないから)

医師も私達家族の意思は理解してくれていました。

「1週間ぐらいかな」


看取り

帰宅した母に水やヨーグルトやプリン、アイスクリーム等々、噛まなくても飲み込める、私も子供の頃に熱を出したりして食欲が落ちたときに母に頼んで食べさせてもらった物を口にしてもらいました。

飲み込むこともほとんどできないことはなんとなくわかっていました。

唇を湿らすだけに。


2月2日早朝

母の寝息が聞こえてきません。


息を引き取っているのを確認しました。


気がかりで、本人からも「先には逝くな」と言われていた父を見送って、

かわいがってくれた私の息子たち、母には孫たちも2021年には成人したのを見届けて、

自分も90歳という節目?を迎えて、

そして安心したのか…

安らかに思い残すこともなく…?


母は天に戻りました。

「お疲れ様でした。そして今までありがとうございました。」

と私は母に言いました。

悲しみはそれほどありませんでした。




長々とした話にお付き合いいただき

ありがとうございました。