ベートーヴェン作曲 《交響曲第5番 作品67 運命》 ハイリゲンシュタットの遺書 | とある音楽教師のつれづれ

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 ベートーヴェンは20代中旬までにピアニストとして、作曲家として社交界で人気を得ていました。モーツァルトのような天才的な早熟ではありませんでしたが、父親(飲んだくれのどうしようもないヤツ)のほぼ虐待的な音楽教育と、作曲家ネーフェへの師事によって、10代半ばで宮廷オルガニストに就任します。彼の環境は、祖父が宮廷音楽家で、父親は解雇されますがそれでも宮廷音楽家の職にありました。ルートヴィヒにとっては、生まれながらにして自分の周囲に音楽があったんですね。

 

 ベートーヴェンが生きた時代は古典派の時代、16歳でモーツァルト、19歳でハイドンなど歴史的な大作曲家と対面し、感性豊かな10代の彼にとって刺激的な出来事が続きます。この出会いから、彼は様々な夢を見た事でしょう。

 22歳になるとハイドンから弟子入りを認められ、彼から作曲レッスンを受けるようになります。1792年頃でしようか。それまでにいくつかの試作的な作品はありましたが、ベートーヴェンの作品数が急激に増えるのは、このハイドンの元で学び始めてからとなります(1792年)。その2年後の1794年には、3曲のピアノ三重奏曲が作品1として立て続けに出版されます。その後、弦楽三重奏曲や弦楽五重奏曲、チェロソナタ、ピアノソナタといった小編成で書かれた曲も次々と出版されます。

 1975年には、2曲のピアノコンチェルトを出版、25歳のベートーヴェンはウィーン社交界において作曲家として、ピアニストとして名声をほしいままにしていました。このように幼少期の父親の虐待的教育はさておき、10代から20代前半における華々しい活躍は、時代の寵児でした。

 

 ここまでの作品は、先人の作風を模倣したものが多く、陽気で明るい軽快な作品が多いのが特徴で、いかにも古典らしい作品となっています。ピアノの教材でも使用されるソナタ1番へ短調も短調とはいえ、作品から深刻な重みや苦悩はあまり感じられません。短調ながらスタッカートを多用したポップな、モーツァルトチックな作風となっています。

 

 そんな中、彼に運命の出来事が起こります。

1798年、28歳頃から彼は耳の聞こえが悪くなっていることに気付きます。雑踏の中の人の声が聴き分けられない、オーケストラの音の判断ができない、あらゆる音がクリアに聞こえてこない・・・。この状況は改善する所か、日に日に深刻さを増していきます。

 彼は、当然この状況を楽天的にとらえることはできません。音楽家に欠かせない商売道具(耳)が不自由になっていくわけですから・・・。彼の作風に苦悩を表すかのような重い、暗い影を表現したサウンドが登場します。

 

1799年、ピアノソナタ8番 作品13 「悲愴」 

https://www.youtube.com/watch?v=d4cAA3vcLGQ

1801年 ピアノソナタ14番 作品27 「月光」

https://www.youtube.com/watch?v=8-JxN0XuGzU

 

 上記の2作品は、これまでの作曲家や彼自身になかったようなサウンドを形成しています。独身青年男性といえば、当然女性に恋をしますが、彼は残念ながら恋にも破れています。耳の病と恋の破局、怒り、嘆き、諦念、悲哀・・・なんなんでしょうね、このサウンド・・。

 

 とはいうもの、このようなサウンドはまだまだ特殊かもしれません。ピアノコンチェルト3番も短調ですが、上記2作品と比較しても、ポップな響きは残されています。苦悩という所まで感じませんね。

 

 1802年、32歳の彼はついに、あの有名なハイリゲンシュタットの遺書を執筆、自分の悩みを文字し、二人の弟にぶちまけます。

 

 もっと大きな声で話してくださいなど言えようか。人には笛の音が聞こえるのに私には聞こえない。人には羊飼いの歌声が聞こえるのに私には聞こえない。こんな出来事に絶望し、あと一歩で命を絶つところだった。命を絶とうとしたとき、それを引き止めたのは芸術だった。自分が自覚している使命をやり終えないでこの世を去るのは卑怯だと思った。だからこのみじめな体を引きずって生きていく。不幸に耐えようとする決意が長く持ち耐えてくれればいい。病状が良くならなくても覚悟はできている。

 

 抜粋でざっくりと遺書を記載させていただきました。詳しくは他のサイトをご覧ください。

 

 さて、この遺書ですが、遺書というよりは決意書となっています。言わば、「ハイリゲンシュタットの決意書」ですよね。

 

 あと一歩で命を絶つところだった。命を絶とうとしたとき、それを引き止めたのは芸術だった。自分が自覚している使命をやり終えないでこの世を去るのは卑怯だと思った。だからこのみじめな体を引きずって生きていく。

 

 このくだりに、ベートーヴェンの執念と燦然たる決意が滲みでていますよね。

 

ここからです。ここからなんです。ベートーヴェンの作風が一気に変わるのは。。

 

 ハイリゲンシュタットの遺書が書かれたのは1802年、翌年、彼はピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」を作曲します。

少し話がそれます。

 この曲はよく、「ピアノの性能が上がったため、同音連打の手法が容易になり書かれた作品」として紹介されます。これは一般的なワルトシュタイン像で、それはそれで確かに革命的な実験なのですが、私はむしろ、この曲の調性法則の無視(崩壊)に目を向けています。つまり、この作品はハ長調であるにも関わらず、第1楽章の提示部においては提示部がおわる83小節目から85小節目のカデンツまで、ハ長調のカデンツである完全終止型がなんと一度も登場しません。

https://www.youtube.com/watch?v=lbblMw6k1cU

 

 冒頭の3小節にかけて、かろうじて半終止がありますが、これはむしろト長調のカデンツととらえたほうが、聞こえ方としてはすっきりします。この後、B♭のコードに入りますが、八長調カデンツは一体どこに行ってしまうのでしょうか。 しかも第2テーマはホ長調という遠隔調です。こんなのあり????

 

 ワルトシュタインでは、ピアノの演奏テクニック的にも作曲技術的にも、一気に革命的なものとなっています。調性崩壊といえば、ワーグナーから印象派のこと、もう少し早くてロマン派のリストかなぁと思いますが、形式美を重視する古典派の時代に、主調に重きを置かないなんて、しかもそれをソナタ形式の第1テーマで実践するとは、革命の何物以外でもありません。これまでの体制を転覆させるフランス革命のような、まるでハイリゲンシュタットのベートーヴェンの決意が表明されているような、そんなやり方なのです。

 

 話がワルトシュタインに逸れてしまいましたが、この後、ベートーヴェンは真骨頂を発揮します。

 

 交響曲3番「英雄」 以降の作品

 ピアノ協奏曲4番以降の作品

 ヴァイオリンソナタ6番以降の作品

 弦楽四重奏曲 ラズモフスキー以降の作品

 ピアノソナタ ワルトシュタイン以降の作品

 

 この傑出した時期を特に1806~1808年をロマン・ロランは「傑作の森」と呼んでいます。私自身、ピアノソナタの悲愴や月光、ヴァイオリン・ソナタの「春」などもいいな、と思いますが、傑作の森以降の作品は、「これこそベートーヴェンだ!!」と感じています。更に、後期の作品においては神がかっていると感じます。。

 

 さて、交響曲第5番《運命》は、ハイリゲンシュタットの遺書以降の1808年に出版されています。ここまでくると、第1楽章のあの怒り、絶望、悲嘆というべき暗さ、そして第4楽章の輝かしい栄光のサウンドの差異が理解できますね。

 

 そうです。《運命》は、ベートーヴェン自身を投影した作品だったのです。そしてこの《運命》というタイトル、今では本人が名付けたものではないとして胡散臭い存在に扱われていますが、ベートーヴェンが向き合わなければならなかった過酷な境遇にぴったりのタイトルじゃありませんか。

 ※最近はタイトルに「運命」と付けない方が主流になっているんですかね・・・

 

 
ベートーヴェン作曲 交響曲第5番に関して
 
ソナタ形式ってなぁに?

 ご精読、ありがとうこございました。