奴隷解放宣言後のアフリカ系アメリカ音楽 | とある音楽教師のつれづれ

とある音楽教師のつれづれ

~~ あんなこと、こんなこと、気ままに ~~

 奴隷解放宣言は奴隷に自由を与えたが、財産も土地もないアフリカ系の人々は、農地を借り農業を続けた。新しい職を探した人は、なかなか職にありつけず放浪する日々が続いた。またシカゴやデトロイト、ニューヨークなどの都会に出る者もいた。奴隷解放宣言後、元奴隷であったアフリカ系アメリカ人は自由以外のも何も残らない最悪の時期であった。

 

 自由を得た元奴隷の中には、散髪屋や靴磨き、荷物運びなどの単純労働で生計を立てながら、音楽の世界に身を投じる人も現れた。特にニューオーリンズ周辺では、音楽を演奏するアフリカ系アメリカ人が急増した。1863年の奴隷解放宣言後から1900年前後の40年間という期間はアメリカにおけるアフリカ系音楽の劇的な黎明期となった。この時代の動きは以下の通りである (年号は多少不明確である)

 

1865年 アフリカ系ミンストレル一座が活動を開始。

     ワークソングではコール&レスポンスのスタイルが激

     減し、フィールドハラーが増加。

1867年 ニグロ・スピリチュアルを歌うフィスク大学合唱団が

     各地で公演。

1870年 アメリカ最古のアフリカ系アメリカ人によるバンド、

     アイダ・クラブ・シンフォニー・オーケストラを成。

1878年 ミンストレル作曲家でアフリカ系のジェームズ・ブラ

     ント“Carry me back to old Virginia”を作曲。

1880年 ニューオーリンズのコンゴ広場の音楽とダンスが

     この頃までに消滅。

     ヴォードヴィルが1920年くらいまで流行。

     ニューヨークのブロードウェイの整備。

1890年 アフリカ系アメリカ人の

     ジョージ・W・ジョンソンが初録音。

     ニューオーリンズで30を超すバンドが活動。

     ミンストレルの大流行。

     アフリカ系ミンストレルはヴォードヴィルへ移行。

     この頃から野唄がブルースへと変わり、放浪者がブル

     ースを広める。

1891年 この頃、伝説のジャズ王、バディ・ボールデンが演奏

     開始。アフリカ系のルイス・ベベ・ヴァスニール

     が“Pour Mourner”録音。

1893年 この頃、バディ・ボールデン楽団結成。

     シカゴ万博でラグタイムが流行。

1894年 ディー・チャンドラーがドラムセットを発明。

     ビルボード誌創刊。

1885年 ティン・パン・アレーがマンハッタンに設置される。

1895年 ニューオーリンズのバンドがジャズ風になっていく。

1897年 ニューオーリンズに赤線街のストーリーヴィル設置。

1898年 ニューオーリンズの娼館にピアノが置かれる。

1900年 マーケット戦略によりブルースはアフリカ系、

     カントリーはヨーロッパ系と分けられる

     (ブルースを歌うヨーロッパ系、カントリーを歌うア

     フリカ系は存在した)

     ブロードウェイに様々な劇場、サロン、ダンスホール

     が設置される。

1901年 ルイ・アームストロング、ウォルト・ディズニー誕生

1902年 スコット・ジョプリンがラグタイム「エンターテイナ

     ー」を作曲。

1903年 ブルース元年。W.C.ハンディがブルースを採譜。

     フランスでアフリカ系による劇「ダホメにて」上演。

1905年 ゴサム=アタックス音楽会社(アフリカ系)設立。

1906年 この頃モートンがストーリーヴィルで演奏、ブルース

     やラグタイムをジャズ化する。

 

 南部各州が制定したジム・クロウ法は、「一滴でもアフリカ系の血が入っていればアフリカ系とされる」と定めた。これによって、それまで特権を得ていたクレオール系の人々はその地位を一気に失った。ニューオーリンズがあるルイジアナ州においては1896年にジム・クロウ法が制定されている。これ以後、クレオール系のミュージシャンはアフリカ系ミュージシャンと演奏することを余儀なくされることとなったのである。

 

 バディ・ボールデン以前のアフリカ系バンドは、南北戦争やフランス軍楽隊の影響を持った行進曲、ポルカ・マズルカなどの舞曲、奴隷時代のワークソングとスピリチュアルなどを中心に演奏していた。そして各種パレード、パーティ、ピクニック、結婚式、葬儀、ダンスホール、安酒場などで演奏した。バディ・ボールデンが活躍した1890年代以降はラグタイムの人気も相まって、演奏にラグタイムの要素が加わり音楽がシンコペイトされるようになった。また、行進曲と当時流行したツゥー・ステップのダンスの影響で2拍子の音楽が流行し、4拍子であっても4拍目を強調するビッグ4というアクセントで演奏した。こうして音楽がグルーヴィになっていった。

 

 当時は、数名からなるバンドマンが催し物の宣伝のために、馬が引っ張るテイルゲートワゴンに乗車して演奏した。テイルゲートワゴンとはトロンボーン奏者が座って演奏できるよう、ワゴンの後あおりをなくしたワゴンのことである。テイルゲートワゴンは街を演奏しながら進むと、他のテイルゲートワゴン車とかち合うことがあった。その時にはカッティングコンテストと呼ばれる音楽の競争を行った。音楽の勝負に勝ったほうが道をまっすぐ進み、負けたほうは道を譲るというものである。音楽の勝負といっても洗練されたビューティな音での勝負ではなく、どちらが大きな音で演奏するかといった低級な競技だった。

 

 このカッティングコンテストはピアノでも行われた。ピアニストのジェリー・ロール・モートンがコンテストに連勝し金を稼いだことは有名な話だが、この音楽での戦いはジャズのDNAの中に組み込まれ、次世代へ受け継がれていく。スウィング時代にも、チック・ウェッブ楽団とベニー・グッドマン楽団、カウント・ベイシー楽団の対決があったし、ビバップも元々はソロイストの即興の腕試しであった。「音楽での戦い」はジャズに共通する普遍的原理ではないが、腕自慢が競い合って勝負を楽しむといったスタイルは、競争社会であるアメリカならではの特徴であるといってもよいかもしれない。

 

 ニューオーリンズでは、クレオール系を中心に楽譜を読めるミュージシャンが多くいた。その為、楽譜が読めるバンドは入念なリハーサルを行い洗練された演奏をした。一方、元奴隷家系のミュージシャンは楽譜が読めなかった。クレオール系のバディ・ボールデンやジェリー・ロール・モートンは楽譜が読めたが、ニューオーリンズ時代のルイ・アームストロングは楽譜が理解できなかった。

 

 この時期にジャズの基礎を作ったのはバディ・ボールデンである。彼は、よく知られた歌などを演奏する際、リズムをシンコペイトさせ音程を変えた。人々は彼の普通とは違う演奏に驚愕し、ボールデンに憧れを抱く少年たちや青年ミュージシャンが増えた。ルイ・アームストロングも少年時代にボールデンのコルネットに憧れた一人である。ボールデンのスタイルが徐々に浸透すると、楽譜が読めないバンドは追随し、自身のバンドに即興演奏を取り入れていった。こうしてジャズの即興演奏の下地ができたのである。

 

 ブルースは1903年、ミシシッピ州タトワイラー駅でW.C.ハンディによって採譜されたといわれている。1903年という時期は前述のとおり、アフリカ系アメリカ人にとって最悪の時期であった。ブルースはこの困難な時期に生まれた。

 

 ブルースの起源は不明な点が多く、明確な由来を見出すことができない。1903年のハンディの採譜が事実であれば、1903年以前にギター伴奏によるブルースが存在していたことになる。一般的にブルースのカテゴリは、ブラスバンドで歌う古典ブルースが最初期であり、ギターで歌われるカントリーブルースはその後に流行しているとされる。録音時期をみても古典ブルースの方がカントリーブルースよりも時期が早い。しかしこれは、レコード録音の時期を考慮したレコード産業的な分類である。なぜなら、W.C.ハンディの採譜が事実であれば、ギターで弾き語るカントリーブルースは、1903年以前に存在していたことになる。また古典ブルースはハンディを模範としており、ハンディはカントリーブルースマンを模範としてブルースを作曲したからである。公民権運動やアフリカ系アメリカ史に詳しいジェームス・M・バーダマンは、「1890年頃から野唄が楽器の伴奏を伴ってブルースが生まれた」と述べているが、やはりカントリーブルース的なものがまず出現し、それが商業化される以前に古典ブルースが商業化されてしまったと考えるほうがよさそうだ。

 

 ニューオーリンズには、ミシシッピ州からニューオーリンズの湾岸に仕事を求めて、多くのアフリカ系男性が移住した。そしてミシシッピ州の男たちはブルースをニューオーリンズに持ち込んだ。また、ヴォードヴィル一座はニューオーリンズに巡業した際、古典ブルースを歌った。こうしてニューオーリンズにもブルースが広く知れ渡るようになると、ニューオーリンズのミュージシャンは自分の音楽にブルージーな要素を組み込むようになった。こうして1900年前半に様々な音楽が混交し“Jazz”というカテゴリがはっきりしないまま、ジャズが始まったのである。