愛する者の死を受け入れる困難さ

5月6日に愛犬「ノア」がなくなりました。

小型犬にしては短い、12年1カ月の命でした。

下の娘が中学入学記念として希望したことで、

家族の一員となり、歴史を共にしてきました。

いわゆる「ペットロス」という状態が続いており、

ブログの更新も二カ月ぶりです。

 

ゴールデンウィーク中に元気がなくなり、

獣医さんに診てもらうと、

「リンパ種」で重篤な状態であると診断されました。

すぐ抗がん剤治療を始めましたが、

回復には至らず、具合が悪くなってからわずか一週間で亡くなりました。

 

不幸中の幸いは、

獣医さんのおかげで一時的に元気を取り戻し、

遠方に住む娘たちの帰省が間に合い、

数日間ともに過ごせたこと、

娘たちに抱かれた状態で旅立てたこと

ノアが苦しい時間が短かったことです。

 

私は、

歳も重ね、

両親も見送り、

小論文指導で「死生観」等についても、

生徒に語ってきた身で、

ある程度、自分の死も愛する者の死も、

受け止められる程度には、

達観していると思っていましたが、

全くそんなことは無く、

この喪失感をなかなか受け止められない状態が続いています。

 

大好きなおやつをねだる姿

毎日帰宅した時に大喜びで迎えてくれた姿

身体をくっつけて寝る姿

すべてが日々思い出されます。

いつも散歩していた公園を通る時も、

なぜ、ここに「ノア」がいないのか考えてしまいます。

 

そして最近思うことは、

人間が愛する者の死を受け入れ、

心のバランスを保つためには、

「自然科学」の知恵だけでは不十分だということです。

古来、人間が、

「人文科学」

つまり哲学や文学や宗教という文化を創ってきた一つの理由は、

自己の死や他者の死を受け入れることが一つの目的であったのだと、

改めて感じます。

 

例えば、

「愛する者は、『天国』等、異世界で幸せに暮らしている。

そしていつか異世界で会える」

という考え方

 

「愛する者は、個体の生命から宇宙生命の一部と、

形を変えただけで、

その存在は存続している」

という考え方

 

「生命を含む一切の現象は『無』であり、

死は本来の無に帰すことでしかない」

という考え方等々

 

何らかの形で悲しみ、喪失感を消化する必要があるのです。

 

現代は「自然科学」を中心にとらえすぎている

とはよく言われることですが

改めて「人文科学」の大切さを思い知らされている日々です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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