西野了のブログ 「テキトーがいいです」

西野了のブログ 「テキトーがいいです」

日々頭に浮かんでいることを適当に書いてます。音楽と本さえあれば満足している資本主義社会にはそぐわない人間。だけどプチブル的に生きているような気もします・・・。

 某月某日、誕生日を迎えました。わたくし68歳になりましたが、自分がまともな年寄りになったかと訊かれると、全く成長していない感があります。よくここまで人様に迷惑をかけて生きてきたと自分でもビックリするほどです。

 わたくしが子どもの頃の70歳と言えば、もう立派な老人です。老人と言えばヨボヨボしているとか、耳が遠いとか、何でも知っているとか、もうすぐ死んじゃいそうとかそんなイメージでした。でもまあ当時は、老人といえば落ち着いていて物知りの偉い人と基本的に尊敬される存在だったと思います。

 果たして68歳になったわたくしが尊敬されるような存在なのかと問われれば「否!」であります。小学生の頃から全く成長していない、相変わらず子どもっぽい精神構造のように思うのです。この感情は私だけでなく今現在、結構そう感じている老人が多いのかもしれません。

 皆様ご存知のように今は若作りの老人も結構います。実はわたくしも実年齢よりも若く見られたりします。しかしその実態はかかりつけ医が3つもあり、ちょっと走るとフラフラする、そして頻尿だし、力仕事は駄目だし、いつポックリ逝ってもおかしくない老人だと思っておるのです。

 昔の老人と今の老人は何が違っているのでしょうか?60年前と現在では平均寿命が延びましたので、相対的に70歳と言えども元気そうな老人が今は多いようです。ただ今の老人は昔の老人と比べて落ち着きがないように感じてしまいます。(わたくしも落ち着きがなくせっかちで喧嘩っ早いです)

 何故わが国の老人は落ち着きがないのであるのでしょうか?それは自民党の麻生太郎副総裁(86歳)が権力欲にまみれて脂ぎっているとか、憲政史上最悪最凶の高市首相(65歳)がホワイトハウスでタコ踊りするとか、そういう害悪の影響が相当あるでしょう。あと熊本県議達の宴会?でネクタイを頭に巻いて踊り狂う議員の姿とか見ると、権力を握ったある種の人間は年齢を重ねれば重ねるほど馬鹿になるとわたくし達は思わざるを得ません。

 うーむ・・・、これまでわたくしは今の老人の落ち着きのなさは現代社会の過剰な情報が原因かと思っておりました。ちょっと膝が痛いとサプリメントのCMが限りなく流れ、皺が増えれば「翌日の新聞折り込み広告をご覧ください」と化粧品会社は喧しい。テレビでは鉄人老人達がいろんなスポーツで世界大会や世界記録を目指してハードトレーニングのしている姿が映しだされています。「年をとってもますますます元気なお年寄り!」と頭のネジが飛んでいるメディアが興奮して言っていますが、「年をとると徐々に体の不具合が増してアチコチが訳もなく痛いよ!」という生き物が漏示というものであります

 振り返りますれば、やはり小泉純一郎総理あたりから政治家の元気老人マヌーバー的パフォーマンスが定着した感があります。テレビ映えのする小泉純一郎総理が渋い低音で「自民党をぶっ潰す」とか訳の分からないことを叫んで民主党をぶっ潰しましたが、やはりマスメディアの威力は大したものです。さらに安倍晋三首相も「森友・加計・桜を観る会問題」について甲高い声で嘘をつき通し、自身が最長政権を維持したのはある意味スゴイコトです。さらに晋三先生の政治家の矜持なんていらない、嘘をつき通せば何とかなるというコトを今の高市首相は学んだのでしょう。そして見事に踏襲しております。

 つまりわたくしが落ち着きのない68歳になることが出来たのは、この国のトップたちが国民を無視して、せわしなく動きまわる多動症候群の姿に激しく影響を受けたということでしょうか?そうするとこれからは、大きな船にのるとピョンピョン飛び跳ねたり、偉い人に会うとヘンテコな色目を使ったり、格下と思えばメンチきってドス声になり、好きなロックミュージックがかかれば、やんごとなき人の前でもノリノリになったり、被災地の上空から何故か合掌したり、太鼓を叩かせてもらえば大盤振る舞いしたりする挙動不審な老人が増えそうです。

 ジメジメした日が続く中、みなさんお元気でしょうか?9月も半ば過ぎると猛暑もなくなり良かったと思いつつ、長雨でお日様が出ないし秋雨前線や台風の影響で災害は怒るし困ったものです。

 さて近頃喧しいのはAIが人間に取って代わるのではないかということです。大学のレポートなどはAIが殆どやっちゃうと教授たちは困っているそうです。最初、その話を聞いた時は(ホントかなぁ?)と思いましたが、どうやら事実のようです。AIはレポートだけでなく小説、作曲もできちゃうらしいから、作家・作曲家は大丈夫だろうかと心配しています。まっ、たぶん大丈夫だろうと思いますが・・・・・・?

 ところで話は変わりますが先日、中国でヒト型ロボットの運動会が報道されました。その映像を観られた方も多いと思いますが、まあビックリです。100メートル走ではウサイン・ボルトも相手にならない程のスピードでロボット君たちが駆け抜けてました。その後ロボット君たちはマットに激突して大破! さすが中国というか「ロボットなんていくら壊れても成果が出ればいいのだ」という感じで、武の国は違います。

 賢明な読者諸兄は気づいたと思いますが、ロボット君たちの整然とした入場行進を見てあることを連想されたと思います。そうこの行進はとある国の軍事パレードみたいです。

 現在の戦争はミサイルと無人機―ドローン攻撃が主流と言われています。そうは言っても兵隊さんが白兵戦?地上戦である地域を占領しちゃうってことも必要でしょう。でもそういう地上戦の為の生身の人間を使うよりもヒト型ロボットーアンドロイドを使った方が良い!と考える軍事戦略家もかなりいるのではないでしょうか?何故ならアンドロイドなら人的被害はないし、壊れても作ればいいし、AIを搭載していればどんどん学習して兵隊アンドロイドはバージョンアップするだろうし。こうなると殆どスターウォーズの世界です。数十年前に漫画「ゴルゴ13」を読んだときに、コンピューターが自我に目覚めて科学者の言うことを聞かずに暴走してしまう内容の話があったと記憶しています。暴走したコンピューターをゴルゴ13がやっつけてしまうのだったか忘れてしまいましたが多分そうでしょう?ゴルゴ13はミッションをいつもコンプリートするし。そして手塚治虫の鉄腕アトムも人格をもったロボットだし、漫画家はAIの危険性を予見していたのでしょうか?

 しかし今さら人類がAIの開発を止める!ということも出来そうにありません。果たして倫理的にAIをコントロールすることは可能なのでしょうか?例えば災害対策用のAIアンドロイドが活躍しても、それを悪用するワルモノは必ず存在するのではないかと危惧したりします。

 トンチンカンなことばかりしているトランプ大統領や高市首相も実はAIに伺いを立てて行動しているのかもしれません。知的に相当問題のある政治指導者をそうやって操っているのは、世界を滅ぼすAIの王様ーマザーコンピューターもしれませんねぇ・・・。まあ、わたくしのいつもながらの妄想ですが。

 NHKの「72時間ドキュメント」は録画して欠かさず観ている。テレビを観なくなって久しい。殆どの曲が権力におもねっているようで面白くない。NHKなどは政府の広報機関のようなものだ。ただNHKのドキュメンタリー番組は国民に事実を知らせるという矜持を感じる。

 民放も含めてテレビのいろんな情報番組にはコスパとかタイパとか無意味な効率化を勧めたり、グルメやファッション、観光地で楽しく笑っている人ばかり出ている。

テレビに映って嬉しそうにしている人はそんなに幸せなのだろうか? 彼らは毎日、美味しいものを食べることしか考えていないのか?食べ物のことで何故あれほどうるさく騒ぐのだろうか。(そういう編集方針なのだろうか)またいろんな場所に言っては「絶景!」とか「インスタ映え!」とか言ってスマホでバチバチ?撮っているが、その行為の意味がよく分からない。

 今も政府は国民の方を向いてなくて物価は上がり続け、医療費、介護費も上がっている。大学生は奨学金とは名ばかりの教育ローンで苦しんでいる。7世帯に1世帯は貧困に喘いでいる。多くの国民の暮らしが楽になるようには予測しづらい。

「72時間ドキュメント」には病や障がいを持ちつつ頑張って生きている人たちや、いろんな事情で孤独に暮らしている人たちを優しく見つめている。働いている人たちもみんな必死だと思う。そういう大変さを声高に訴えているのではなく、静かに淡々と語っている。

 また番組では学校に行けなくなった子どもたちを受け入れている居場所もあれば、過疎化でスーパーが経営出来なくなり、地域の人たちがNPOをつくってスーパーを運営したりしている地域も取り上げる。

日本全国いろんな場所で一人ひとり、痛み・悲しみ・淋しさを抱えて、それぞれのやり方で生きている。だけど悲壮感はない。僕はただ彼らの言葉に納得するだけだ。

 

 いったい世界はどうしてこんなにうるさくなってしまったのだろう。テレビではお金の話、グルメの話、ファッション・コスメの話、旅行・観光地の話などなど、同じような顔が大声でいつも同じようなことを喋っている。いったいそんなことを知りたいと思っている人がどれぐらいいるのだろうか?

 人々が本当に伝えたい言葉は言い淀んだり、股間がかかったり、不安そうであったりする。そしてそれは小さな声で語られる。「72時間ドキュメント」は本当の話を聞くことが出来る数少ない番組だと思う。

「転校生の永瀬水希さんだ。これまでアメリカとかヨーロッパに住んでいた。いわゆる帰国子女だ」
「オーッ!」
「可愛いじゃん」
「胸、大きくね?」
「外国に住んでいたってーっ」興味と卑屈な軽蔑の視線が教壇の横に立っている少女に注がれた。
「静かに。ご両親の仕事に関係で日本に戻って来た。久しぶりの日本なので慣れないこともあるだろうから、みんなよろしく頼む」担任の那須が真面目に言った。
「永瀬水希です。6年ぶりの日本なのでわからないことがたくさんあります。よろしくお願いします」転校生は緊張しながらフワフワの髪を下げて挨拶した。
「席は廊下側の一番後ろの山口久志の隣だ。山口、いろいろと彼女に教えてあげるように」
「ヒューヒュー、ひさしちゃん優しくしてねぇ」
「怖い顔したら水希ちゃん、泣いちゃうよーっ」馬鹿な林と藤本が喜んでいる。
「アメリカやヨーロッパだってぇ・・・」何人かの女子の妬みを含んだ嘲るような声も聞こえた。
 俺の隣に座った転校生はニッコリ笑って言った。
「山口・・・くん」
「あっ、ああ」
「これからいろいろ迷惑かけるけど、よろしくね」
「あっ、ああ・・・」俺が曖昧な返事をすると、転校生はクスクスと笑った 何が面白いのだろう?


 帰国子女は珍しいのか、2-Bクラスのミーハーな奴らは転校生に群がってあれこれと訊いている。俺は自分の席を離れて廊下に出た。俺の通っている高校は海の近くにあり二階の廊下からも見晴らしが良い。梅雨の晴れ間に瀬戸内の海は穏やかな光を放っている。その水面は白い靄がかかっているように曖昧だ。
「せっかくカワイ子ちゃんが隣に来たのに、なに離れてるんだ?」クラスメートの原拓海は少し色が入っている眼鏡を動かしながら青い空を見た。
「オイ、誰だよカワイ子ちゃんって? それより久志ぃ、トイレ」2-Cの片田幸太郎は車椅子を両手で動かしながら寄って来た。
「俺も行こう」
 俺たち三人はトイレで用を足すと再び同じ場所にもどった。
「山口、レッド・ツェッペリンの二枚目聴いたんだろ? どうだった」原は眼鏡をハンカチで拭きながら訊いてきた。
「ああ、この前の日曜に買った。あんまり分かんないな。俺はパープルの方が良いなぁ」
「ジミー・ペイジのレスポールよりリッチーのストラトキャスター方が良いか? 俺はツェッペリンの方が好きだけどな」
「ツェッペリンのギターとかボーカルって粘くない? ちょっとしつこい感じがするんだけど」
「それがいいんだよ。リッチーの方がジミー・ペイジより上手いけどな」
「原は粘い方が良いのかよ?」
「ブルースっぽいギターはカッコいいぜ」原はギターが超うまいのだ。こいつはバンドのリードギターをしてるけど、インプロビゼーションのフレーズが勝手に出て来るって言ってた。訳わからん。
「お前ら、よくあんなうるさい音を聴けるなぁ。変態じゃねーのか?」幸太郎は車椅子の肘掛けに右ひじをついて呆れていた。
「幸太郎こそ、アイドルの下手な歌をよく聴けるなぁ。今は誰のファンだ?」拓海がニタニタ笑ってる。
「アグネス様じゃあー! おっかのうえーひんなげしのはながぁー」幸太郎はマイクを持つように両手を重ね、体を左右に揺らしファルセットボイスでアグネス・チャンの歌真似をした。
「ヒャヒャヒャー、何、その下手くそな歌は、気色悪っ。それに片田、お前はやっぱ変態か?」突然現れた2-Dの北川舞が馬鹿にしたように片田を覗き込んだ。
「バーカァ、お前なんかにアグネスの可愛らしさが分かるか。アホ。それより舞、お前はやけにスカート短いなぁ。おう、分かった。俺にパンツ見てもらいたいのか?」幸太郎は少し不自由な左手で北川のスカートをめくろうとした。しかし北川はサッと身を翻すと幸太郎の左手は空を切った。
「バーカ、片田のスケベ! 自分でマスかいてろ」
「な、な、な、な、なにおー、このドブス!」幸太郎は車椅子で目の前の舞を目がけて突進しようとした。しかし彼の車椅子は急に止まってしまった。
「誰じゃー!」幸太郎振り返ると生徒会長の麻倉遥が車椅子のグリップと介助用ブレーキを握っていた。
「遥ちゃん!」幸太郎は微笑んでいる遥を見るとだらしなく笑った。
「相変わらず片田君と舞は仲が良いのね」麻倉の落ち着いた声を聞くと幸太郎は慌てて右手を振った。
「だ、だ、だ、だれがあんなイカレポンチと。遥ちゃん、それは誤解ですゥ」
「幸太郎、お前はホントに遥の前では態度が変わるなぁ」北川は呆れていた。
「それより山口君、先ほど2-B覗いたけど、あなたの周囲はうるさくて大変ねぇ」麻倉遥は涼し気な眼差しで俺を見た。同じ高校二年生とは思えない大人っぽい瞳の色だと俺はいつも感心している。
「別に・・・、どうせ直ぐ静かになる・・・」俺はつまらなそうに言った。
「フフッ、そうね。あと数日したら元にもどるかも。でも永瀬さんはバイリンガルだから大変かも、ねえ拓海?」
「・・・そうだな」拓海は瞳を閉じ少し考えて返事をした。俺と北川、幸太郎はそれぞれ不思議そうに顔を見合わせ、そして麻倉と拓海を見た。


 数日後、潮が引くように転校生の周りには人がいなくなった。授業中、俺と長瀬は机をくっつけている。彼女の教科書がまだ届いていないからだ。忘れ物をした小学生みたいで、最初はクラスの奴らが面白半分で俺たち二人を見ていた。数人の女子は意地悪そうな視線を投げかけていた。そんな状況で俺はとても緊張したが、永瀬は平然としていた。俺と二人で教科書を見るのが、さも当然と言う雰囲気なのだ。周りの奴らはとても緊張している俺と自然体の転校生のコントラストが面白かったのかもしれない。だが奴らが面白がったのはほんの数十分だけだった。俺はクラスの奴らの無関心さに心底安堵した。
 永瀬水希は俺が教えることなどないほど聡明だった。英語の発音などは明らかに教師より上手い。長瀬の英語を聞くとみんな最初は「ほぉー」と感嘆の声を上げた。だが彼女の素晴らしく美しい英語の発音が一部の人間にとっては妬みや悪口の対象にもなった。そのざらついた負の感情に永瀬は戸惑っていた。
 長瀬が転入して三日後の昼休みだったと思う。俺は自分の席でロック雑誌を読んでいた。
「ねえ、山口君。山口君ってロック好きなの?」いきなり右隣から柔らかい声が俺の頭に入ってきた。
「あっ、あ、ああ・・・っ。まあ、好きだけど」
「どんなバンドが好きなの?」永瀬は少しだけ右に顔を傾けて、少し銀色がかっている瞳で俺を真っ直ぐ見つめた。
「え、え、えっと・・・あのぅツェッペリンとかパープルが気に入ってる・・・」俺は自分じゃない声が外から聞こえているようだった。
「エッ、そうなの? 私もツェッペリンとかパープルは大好きだよ」目の前の大人しそうな少女の口からハードロックバンドの名前が出たことに俺は驚いた。そしてチャーミングな彼女が楽しそうに俺をじっと見つめているので、俺は何処を見ていいのか全くわからないでいた。
「永瀬さんはさぁ、外国にいたんだろ。だったら外国のバンドのコンサートに行ったことある?」俺は視線をあちこちに飛ばしながら訊いた。
「うん、いろいろ行ったよ。レッド・ツェッペリンのライブはとても良かったよ」
「エーッ! ツェッペリンのライブ行ったの。すげえ! やっぱりジミー・ペイジのギターはカッコよかった。ロバート・プラントはあんな声が出るのかな?」俺は興奮した。
「そうだね。ジミー・ペイジもロバート・プラントも良かったけど、私が一番凄いと感じたのはジョン・ボーナムのドラムかな? ドスン、ドスンってお腹に響くの」帰国子女は両手で自分のお腹をそっと押さえた。
「へぇー、ジョン・ボーナムのドラムかぁ」俺はボーッとして目の前の銀色がかった瞳を見ていた。
「久志ぃー、しっこー!」教室の後ろの入り口からダミ声が響いた。
「うるさいな!」俺は幸太郎と車椅子を押している北川を睨んだ。
「トイレくらい一人で行け!」
「ほうほう、この子が山口久志クンの大好きな永瀬水希ちゃんですか? なるほどなるほど、うんうん。あっ、あたしは北川舞。よろしくね、水希ちゃん」北川はそう言うと俺にウインクした。
「な、な、な、何を言ってるんだ、北川! お前は!」俺は頭に血が上るのをハッキリと感じ口が上手く動かない。
「ヒャヒャヒャー、図星だ図星。オイ幸太郎、見ろ。久志が真っ赤だぞ」
「ギャハハハ―ッ、水希ちゃん、気を付けてねーっ。こいつ巨乳好きだから夜中に水希ちゃんを想いながらアヘアへしてるぞ」幸太郎の奴、手を叩いて喜んでいる。それに何が水希ちゃんだ、この野郎!
「アヘアへ、ンン?」北川が白々しく首を捻っている。
「アヘアへ、ドッピュン!」幸太郎は白目をむいて口を開け恍惚の表情をつくった。
「アハハハ―ッ」今度は北川が喜んで手を叩いている。
「お前ら、あっち行け! 俺は永瀬さんとロックの話をしているんだ!」デリカシーの欠片も無い奴らだ。
「そんなぁー、久志くーん。僕がおしっこするの、優しく手伝ってぇー」猫なで声だ。
「気色悪い声だすな。北川にしてもらえ」
「舞ちゃーん、俺のおしっこするの手伝ってーぇ。僕のプリプリスベスベのお尻が見れるよーぅ」
「ヤダ、死んでもヤダ!」北川はツインテールをブンブン振った。
「わかったよ、もう・・・。永瀬さん、ゴメン」俺は椅子から立ち上がり、車椅子のグリップを握ろうとした。
「ちょちょちょちょチョット、久志、ちょっと待てよ、コラァ」幸太郎は振り返り右手を上げた。
「ごめんごめん、山口。幸太郎はもうトイレ一人で済ませたんだ」北川が真顔になっている。
「んん?」俺はあっけにとられた。
「あたしら水希ちゃんに会いにきたんだよ。どんな子かなぁって」
「うん、そうだ。まいったか?」幸太郎、偉そうだぞ。
「この不愛想で無表情な山口をアタフタさせた可愛い帰国子女を見に来たんだ。ゴメンね、水希ちゃん」北川は永瀬に右手を差し出した。長濱は嬉しそうに北川の右手を握り立ち上がった。そして彼女は北川をそっと抱きしめた。
「はぁー、水希ちゃん、いい匂い。それとさすが外国育ちだねーっ、ハグするのが上手」
「ミーツ―、ミーツ―。俺も水希ちゃーん」幸太郎が騒いでる。何がミーツ―だ。
「ナイスッミーチュー」永濱は幸太郎の右手を握った。
「ガッカシ・・・」と言いながらも幸太郎は嬉しそうに笑った。
「山口君のお友達は楽しいね」
「エッ、そうかな」
「それから山口君にも挨拶していなかったよね」
「ウン?」俺が彼女の言葉を疑問に思ったとき、柔らかい体が俺を抱きしめていた。
「・・・・・・」目も眩む真っ白な世界の中、俺は何も言えなかった。しばらくして現実世界の映像がもどってきた。俺が最初に見たのは、幸太郎と北川のポカンと口を開けた顔だった。


「さあ、着いたわよ」
幸太郎の母は白いトヨタ・カローラを映画館の前につけた。俺はカローラのトランクから車椅子を抱えコンクリートの地面にそれを置いた。助手席のドアが勢いよく開いた。助手席に乗っていた幸太郎は「ウウーッ」と唸りながら、両足を何とか九〇度回転させた。それから奴は開いたドア窓のふちを両手で持って全身に力を込め少し膝を曲げて立った。俺は奴の後ろに素早く車椅子を滑り込ませた。「もういいぞ」という俺の声とともに幸太郎はゆっくりと車椅子のシートに腰を下ろした。そして両手で右腿を抱え上げて右足をフットサポートに置き、左足も同じ動作をした。それから奴は助手席ドアを力強く閉めた。「バタン!」という怒気を含んだような音が響く。
「久志ぃー、オッケー」
「じゃあ、おばさん、行ってきます」
「久志君、いつもありがとね。幸太郎、あまりワガママ言って久志君に迷惑かけるんじゃないよ!」
「うっせい、ばばあ。はよ行けや!」
「コラァ! なんじゃあーっ、その言い方は。迎えに来てやらんぞ!」
「アッ、スイマセン、ごめんんさい、お母さま」また猫撫で声・・・。
「ウム、分かったらよろしい。それじゃ、久志君、バカ息子をよろしくね」幸太郎の母親はそう言うとカローラのハンドルを回し颯爽とその場を離れて行った。
「おー怖っ」幸太郎は顔を歪めて言った。
「お前、あんな良い母ちゃんに酷いこと言うなよ」
「あれは俺たちの挨拶みたいなもんじゃ。ヒャヒャヒャー」
「まあ、そうだけど・・・」俺と幸太郎はゆっくりと映画館の中に入って行った。まだ誰も来ていない。
 俺たち二人が映画館一階エレベーター前で待っていると、背中から「ワッ!」と弾んだ声がした。北川の両手が幸太郎の両肩を強く叩いた。
「うおおおぅー」幸太郎の右手が反射的に上がりブルブルと震えた。
「ヒャヒャヒャー、お前、顔がタコみたいだから、ホントのタコ踊りだなぁ」北川が楽しそうに幸太郎の顔を覗き込んだ。
「コラァ、舞! 何すんじゃ、てめえは。心臓止まるかと思ったわい。あーっビックリしたぁ」幸太郎はオーバーに右手で胸を押さえていた。
「おはよう、山口君、片田君」ピンクのワンピースに白いカーディガン姿の永瀬が少し照れながら言った。
「お、おう」俺は挨拶が苦手だ。
「おはようーっ、水希ちゃーん。ナイスミーチュー」幸太郎の奴、図々しく右手を出して握手を催促している。永瀬は笑いながら腰を屈めて握手した。
「水希ぃー、幸太郎を甘やかすと、こいつベタベタと触ってくるぞ」
「うるせー、ブス! またそんな短いスカート履いて。やっぱりてめえは、俺様にパンツ見てもらいたいのか?」
「バーカ、あたしの健康的で美しい足を披露するのは世の男性に対する義務なのだ」紺色のデニムのジャケットとミニスカート姿の北川は右足を前に踏み出し、背を伸ばしたポーズをした。
「ケッ! 誰がてめえの太っとい足なんか見るか。オエーッ、気色悪ぅー」
「何だと、幸太郎! 何言ったぁ」北川は幸太郎の後ろに回ると車椅子のグリップと介助用ブレーキを握りティピングレバーを右足で踏み込んだ。幸太郎の車椅子の前輪が四十五度浮き、北川は車椅子を前後左右に揺らした。
「ワーッ! 怖―い怖っ! 舞、馬鹿っ。止めろう!」
「舞? 馬鹿? 何だぁ、その言い方はぁ?」北川は相変わらず幸太郎の乗っている車椅子を揺らしている。
「あぅ、舞様ですぅ、舞様、許してくだされぃー。お願いしますだぁ」
「あたしの足を何て言った?」
「舞様のおみ足はとても美しゅうございます。世の男の憧れでしゅー」
「よーし、許してやろう」北川はゆっくりと車椅子の前輪を床に着けた。永瀬は少し驚いたように俺を見た。俺は「こんなもん」と答えると転校生は小さく笑った。
「オーッ、怖ッ。舞、怖ッ」幸太郎は息を吐き出した。
「片田と北川は何処にいてもうるさいな」拓海の声が後ろから聞こえた。拓海の奴、黒い詰襟の制服を着てる。隣にはアイボリーのチノパンツに白いブラウス、それから薄い緑のジャケットをクールに着こなした麻倉が立っていた。
「ちょうど良い時間ね。じゃあ行きましょうか」麻倉の一声でごちゃごちゃしていた俺たちは、その声に従いスッとエレベーターに乗ったのだった。


 俺はホラー映画を基本的に観ない、というか観ることができない。生理的に受け付けないのだ。だが今は何故かホラー映画を観ている。俺の左座席には永瀬が潤んだ瞳で楽しそうに大画面を観ている。彼女の左隣は麻倉がいて、その左隣は拓海が座っている。幸太郎と北川は前方の車椅子用のスペースに行っている。
 その映画は頭のオカシイ母親に変なふうに育てられた超能力のある少女の物語だ。怪しい宗教にハマっている母親は娘に生理の処理も教えていない。だから彼女は学校の友達からもいじめられている。暗い話だ。それでも優しい彼氏ができてパーティに招待されるが、いじめっ子たちの策略で豚の血を頭からかけられる。(ゲッ、ひどい! あ・・・、気持ち悪い・・・。意識が飛びそうだ)すると俺の左手に小さく柔らかな手が触る感触があった。俺はぼんやりとした頭で左を向くと心配そうな永瀬水希の瞳があった。
「山口君・・・、大丈夫?」
「あっ、ああ・・・」全然大丈夫じゃない。
「辛かったら外に出て休憩しない?」
「いや、大丈夫・・・」俺は息を吐きながら言った。永瀬は納得していない表情を浮かべると、彼女の指が俺の指に絡みついた。俺は驚いて左隣の少女を見ると、彼女は俺を見て微笑んだ。すると俺は左手から温かいものが全身に広がっていくのを感じた。それまで強張っていた体がユルユルと解けていく。それはとても嬉しいことだったけど、俺は自分の臆病さに落胆もした。だが永瀬に元気をもらったのだから、ここは男としてカッコいいところを見せねばならぬと決意した。だから前方の大画面を凝視したのだ。だけどやはり苦手なものは苦手で、衝撃のクライマックスの場面では俺の心臓は止まりそうになり体に力が入らなくなった。
 上映が終わり観客たちはパラパラと館内から出て行く。
「さあ、行きましょうか。アレッ?」麻倉が蒼い顔をしている俺に気づいた。
「ハハーン、やっぱり久志はホラー駄目だったんだな」拓海の奴、ニヤニヤしている。
「この映画、そんなに怖かったかしら?」
「久志は幽霊とか怖い話とかすると何気にシカトしてたからなぁ」こいつ、まだ笑ってやがる。
「山口君はクールで表情にはあまり出さないけど繊細だからね」麻倉は美人で飛びぬけて頭も良いけど優しい。彼女に欠点なんてあるのか? といつも思う。俺や幸太郎、北川は勉強が苦手で他に取柄もない劣等生なのに、どうして麻倉遥は俺たちと仲良くしているのか 不思議だ。
「久志、お前、ココでもう少し休んでいるか?」ニヤついている拓海の言葉に俺は小さく頷いた。腰が抜けて立てないとは言えないのだ。
「じゃあ、私たち待合室で待っているわ。永瀬さん、山口君をお願いね」そう言うと二人は出口に向かって歩いて行った。
「ごめん、永瀬さん・・・・・・」情けない俺は自分に心底がっかりした。
「んんん、そんなことないよ。山口君、気分は悪くない?」優しいクラスメートは俺の眼を覗き込んだ。銀色がかった瞳がとても綺麗だ。
「もう少し休んだら立てる・・・」俺は何とか眼を開けて呟いた。
「山口君、深呼吸をゆっくりとしてみたら」俺は永瀬の言う通り深呼吸を何回か繰り返した。すると体が少し楽になってきた。
「ねえ、山口君。私に何かしてほしいことはない?」
「・・・キス・・・、アワワッ、イヤ何でも何でもない!」愚かで馬鹿な俺は何故かそう言ってしまった。
「フフッ」永瀬水希は小さく笑うと、その柔らかいピンクの唇で俺の乾いた唇を塞いだ。俺はあまりの出来事にまた頭の中が真っ白になった。そして胸の奥から熱いモノが体の隅々まで広がっていった。
 いったいどれくらいの間、俺と水希はキスをしていたのだろうか? 気がつくと目の前に頬をピンクに染めた彼女が嬉しそうに笑っていた。
十六歳の俺にとって、世界は謎に満ちていた。だけどその未知の世界の中に想像を超えるとても素晴らしいことがあることも今、少しだけ分かった・・・・・・。
 呆然としている俺だけど、恋に落ちるってこういうことかなって考えることはできた。そしてよく分からないけど俺は、恐れのような頼りない不安な気持ちも同時に感じていた。


 俺たちは映画を観たあと拓海の提案でパスタが美味しいと評判のレストランに入った。楕円形ケーブルで昼食をとりながら先ほど観た映画のことを話していた。
俺はホラー映画の影響と水希のキスのショックでまだボーッとしていた。俺は普段から口数が少ないので大体は聞き役だ。だから俺の振舞は、いつもとそんなに変わらないと思っていた。
「舞があんなにビビりだとはようーっ、思ってもいなかったぜ、ヒャヒャヒャ―」俺の右隣の幸太郎はピラフを頬張りながら言った。
「うるさい! それよりも幸太郎、食べながら喋るなよ。汚いな・・・」北川の言葉にいつもの勢いがない。
「オイ、久志ィ。舞の奴、ちょっと怖い場面とか不気味なシーンがあると俺様にしがみつくんだぜ」幸太郎は両手でしがみつく真似をして分厚い唇を何故か鳥の嘴のように尖らせた。
「ふーん」俺はトマトソースパスタを食べながら適当に相槌を打った。パスタの味が分からない。
「そういう話はやめろよ、幸太郎!」北川は左手で幸太郎の背中を思い切り叩いた。
「痛ってぇーっ。何すんだよ、このブス。俺様が優しく抱いてやったのによ」
「幸太郎のバカ! お前はホントに女の子の心が分かんないな!」
「何ぃ?」またいつものように二人の口喧嘩が始まった。
「まあまあ、二人ともお辞めなさい。今は食事中よ。でもホラー映画をチョイスした私が悪かったわね」麻倉が少し申し訳なさそうに言うと、直ぐに幸太郎が反応した。
「いやいやいや、そんなことないです、遥ちゃん! グッドチョイスです。映画、面白かったです、なあ久志?」
「あっ・・・・・・、ああっ」俺は曖昧に答えるしかなかった。
「何だよ、相変わらず愛想ないなぁ。アレッ、ひょっとして久志もあの映画にビビったのか? 腰でも抜かしたのか?」幸太郎はニタニタと笑い出した。
「ブブッ」拓海の奴、吹き出してやがる。
「あーっ、そういえば映画終わってからあたし達がトイレに行ったじゃん。幸太郎が遅いから時間がかかって待合室行ったけど、お二人さんはまだ来てなかったねーぇ。へへへッ、どうしたのかなぁ? 水希ちゃんと久志クンはぁ」北川も意地悪そうに俺と永瀬を見ている。
「山口君は繊細だからホラーは駄目だったのね。やはり私のチョイスが悪かったのよ」麻倉は本当に良い奴だ。
「あの映画で怖がって腰を抜かす奴は久志だけだな」拓海の奴、分かっていたのか!
「山口! 腰抜かしたの?」
「エーッ! グァハハハ―ッ」
麻倉が「もう、拓海は」と怒ると拓海は珍しくバツの悪い表情を浮かべた。それから爆笑していた幸太郎と北川は麻倉に睨まれると、お互いの肩を叩きながら笑いを必死に噛み殺していた。ホントに繊細さの欠片もない奴らだ。俺は顔が赤く火照るのを感じた。
「久志君、そのトマトソースのパスタ美味しいかな?」俺の左隣に座っている水希の声が優しく滑り込んできた。
「あっ、まあまあ・・・、かな」
「私のボンゴレも美味しいよ。ねっ、少しだけ交換しない」
「あっ、ああっ? い・・・いいよ」俺はカクカクと頭を上下に動かした。水希は器用にフォークで俺と自分のパスタを交換した。他のメンバーはあっけにとられたように彼女の動きを目で追った。
「うーん、美味しい。久志君のパスタは美味しいねぇ」予測不可能なことをする転校生は満足そうな笑みを浮かべた。
「水希ちゃん、それって間接キッスじゃない?」幸太郎は呆れたように言った。
「フフッ、そうかなぁ」水希は左目で幸太郎にバチッとウインクした。
「ヒャー。おい久志ぃ、早く水希ちゃんとの間接キッスパスタ食えよ」幸太郎に言われるまでもなく俺は慌ててボンゴレビアンコを口に入れた。だが慌ててパスタを食べたので、何処か変なところにそれが引っかかったみたいで喉に痒い違和感を覚えた。
「ゲホゲホゲホゲホ!」俺は顔が熱を持つくらい激しく咳き込んでしまった。
「久志君、大丈夫?」水名は俺の背中に右手を当てて左手にはピンクのハンカチを持って俺を見た。
「ハアーッ、だいじょーぶぅー。ハァーッヒーッ」俺は涙を浮かべながら情けない息を吐きながら何とかそう答えた。
「久志ぃ、お前、今日変だぞーっ。どうしたぁ? 何かあったのかぁ」無神経な幸太郎もさすがに何か気づいたみたいだ。
「あーっひょっとして、さっき水希が山口を介抱してたんだろ。それからぁ、お前たちキスしたんじゃないか? へへへっ」北川は高校の勉強は苦手だが勘はとても鋭い。俺は「ゲホゲホ」とまた咳き込んだ。
「フーン」麻倉の低い声が聞こえた。俺の唇を水希がピンクのハンカチでそっと拭いてくれたからだ。
俺は大人しそうな水希の時折見せる大胆な行為に混乱しつつも激しく喜んでいた。そして俺は自分の存在が何故かとても力ないものに思えてしまうのだ。


「じゃあねーっ、水希ぃー、バイバーイ」
「水希ちゃーん、またねーっ、チュチュチュ―!」
「コラ、うるさい、バカ息子!」
「アハハハ―ッ。叩かれてやんの」幸太郎と北川を乗せたカローラが走り去った。
「俺、遥を送っていくわ」白い乗用車を見送った拓海が麻倉の方を向いた。
「ありがとう拓海・・・。ところで永瀬さん、急にあなたを誘ったけど今日は楽しめたかな?」
「ええ、とっても。こちらに来てから今日が一番楽しかったです」永瀬水希は遠くを眺めているような瞳をしている。
「そう、それは良かったわ。それでね、もし良かったら、またこのメンバーでいろんなことしない?」
「ええ、喜んで」(水希は言い淀んだりしないのだろうか?)俺は驚いた。
「おい久志、良かったな・・・ンン、それだと永瀬さんとデートする時間が減るから良くないか?」
「ンーン・・・・・・あっ・・・っと」俺は話すのが下手だ。
「拓海、そんな意地悪言わないで。あなたは山口君の優しさに寄りかかり過ぎよ」麻倉は拓海を優しく睨んだ。
「フフフッ、大丈夫ですよ」水希の小さくて少しだけ湿った左手が俺の右手を包んでいた。
 麻倉と拓海は驚いて顔を見合わせた。そして美しい生徒会長は切れ長の右の瞳を少しだけ見開いた。
「じゃあ、永瀬さん、山口君、また明日」麻倉遥はそう言い終えると「帰ろう」と拓海に囁いた。
「久志、お楽しみはこれからだぞ。じゃあな」長身のカップルは俺たちに背を向けて歩いて行った。
「・・・・・・」俺は拓海が言った言葉を頭の中で繰り返した。だけど頭の半分は右手に意識がいっている。
「久志君、五時を過ぎているのに、まだ全然暗くないね」俺の右腕に柔らかい水希の体の感触があった。それでもまだ俺は拓海の言葉のことを考えていた。
 西に傾いた陽の光はオレンジ色に街を染めつつあった。
「あのさ・・・・・・永瀬さん」俺はチャーミングな転校生の顔を見ることができない。
「うん、何。久志君?」
「お、俺にいろんなことしてくれて、あの・・・、えっと、あ、ありがとう」俺の頭の中は燃えている。
「フフフッ、どういたしまして」水希はますます可愛く綺麗になっている。俺は驚いた。
「あのさ、俺、勉強もそんなにできないし、運動も駄目だし、えっと、拓海みたいにギターも弾けないし・・・話すのも下手だし。良いとこ、ない気がする」俺は何を言っているのだ?  だけど素敵な転校生は俺の頼りない右手を白い両手で包んでくれた。
「久志君はねぇ、とても大切なものを持っているよ。自分だけの世界を。それってとても素敵なことだと思うんだ」
「あっ、ありがとう」俺はやっと水希の銀色がかった瞳を見ることができた。
「久志君、お楽しみはこれからよ」素敵な少女は二〇〇パーセントの笑顔を持っている。そして味気ないモノトーンの世界を美しく変えることができる。それから未成熟な俺に暖かいヒントを届けてくれる。
「うん、分かった。うーん、でも何処に行こうか?」俺には目の前のピンクの唇と白い歯が眩しかった。
「何処にでも」
「そうだな。何処にでも行くことができる」
「イエス、フフッ」
 そのとき六月の風は、爽やかに俺と水希の間を吹き抜けていった。
 もうすぐ新しい夏が来る。俺と二〇〇パーセントの転校生は茜色に染まり始めた西の空を見上げていた。
 

(この物語の本編は 「小説を読もう 西野了 『海が見える街で』」です)

 僕は毎日この海岸で腰を下ろして蒼い海を眺めていた。釣りをするでもなく泳ぐわけでもない。丸いサングラスをかけて古い麦わら帽子を被って、ただ蒼い海を見ていた。西に浮かんでいる水平線は曖昧でぼんやりと見える。その曖昧な水平線から離れて積乱雲が湧き上がっている。それは高校生の時に見た積乱雲とは違っていた。あの頃見た積乱雲は暴力的で、やたら青い空と一線を画すみたいに存在を主張していた。
「ねえ、いつもそこで何をしているの?」
 隣で腰を下ろしている少女が不思議そうに訊く。
「海と空と雲を見ている」
「そしてビールを飲んでいる」
「うん」
「ビールを毎日飲んでいるけど美味しいの?」
「美味しいときもあれば、そうでないときもある」
「ふーん、あなたは我慢強い人だね。私は美味しくないものは食べないし飲まないよ」
「それがマトモな人だ」
「じゃあ、あなたはマトモな人じゃないの?」
「多分、そう」
 少女は何も言わずに海を見た。彼女も麦わら帽子を被っている。時折風が吹くと麦わら帽子のつばを両手で押さえたりする。
「私もビール飲もうかなぁ?」少女は立ち上がり僕が毎日行く店の方へ歩き出した。オレンジ色のワンピースにアイボリーのカーディガンが軽やかに揺れている。だけど少女はそう言ったきり帰ってこなかった。


 ゆっくりと陽が西の空を動いている。学生服を着たポニーテールの女の子が隣に腰を下ろしている。
「雲にいろんな色がついているよ」
 僕はおもむろに見上げると空の西半分に、緑、オレンジ、ピンク、黄、紅、水色、灰色と様々な色が混ざった雲が浮かんでいた。
「彩雲って言うの。知っていた?」女子高生は立ち上がり、小麦色に焼けた両手を大きく上に伸ばして背伸びをした。彼女の黒い瞳が僕を真っ直ぐ見つめている。
「何処かで見たような気がする・・・」僕は曖昧な返事しかできなかった。
「エーッ、覚えてないの!」彼女は僕の横に再び腰を下ろした。そしてわざとらしく両腕を組み、ピンクの頬を膨らませ僕を睨んだ。
「一緒に学園祭を準備していた時にあの雲を見たでしょう? 私たちは学園祭のポスターやパンフレット、それにデコレーションとかを夜遅くまで作ったの覚えてないの? 大変だったんだから」
「そうだったかな・・・」
 僕は左肩に彼女の頭の重さを感じる。
「ホントに君は大切なことを忘れるんだね」
「そうみたいだ」
「困ったもんだね」いい香りが漂っている。レモンのような酸っぱくて甘い果実のような・・・。高校時代に僕は何をしていたのだろうか。学園祭の裏方をして、何が楽しかったのだろうか? 僕は隣を向くと甘い香りは消えていた。
「君は無口で不愛想だったけど、私は信頼していたんだよ」
 ポニーテールの女子高生はまた立ち上がった。そして笑いながら波打ち際に立って僕を見た。西に動いている陽の光が海面に乱反射し、その黄金色の光が彼女を包んだ。そして光の泡のように彼女は消えていってしまった。
 僕はその瞬間、思い出した。学園祭が終わった時、彼女が僕に握手求めてきたことを。僕は戸惑いながら彼女の小さな手を包んだ。僕の右手に彼女の涙が落ちてきた。あの時も空にはいろんな色を含んだ雲が浮かんでいた。


 海岸の砂の熱さも僕は気にならなくなった。いや、そもそも砂の熱さなんてものを感じていたのだろうか? 
 僕は左手で鉛色の砂を掬いとった。砂は乾いているだろうと思ったら少し湿っていた。
「乾いているのは表面だけでしょう」紺色のサマースーツを着た女性は断定的に言った。彼女の口調はいつも歯切れがいい。良すぎるのかもしれない。
「もうすぐ夕陽が沈むわ」彼女は右手で庇をつくりオレンジ色の陽光から眼を守ろうとしている。
「サングラスをしているのに眩しいのか?」
「私の眼は光に弱いのよ。知っているでしょ」
「・・・・・・」僕は左手の砂を落として立ち上がった。そして西の空を覆っている茜色の雲を見上げた。彼女も僕と同じように西の空を見上げた。
「私たちは夕暮れとは無縁だったわ」
「夜空に月があることも忘れていた」僕は夜遅くまでオフィスでキーボードを叩いている彼女を思い出した。
「あら、私はお月さまの光、好きよ」彼女はサングラスを外し胸のポケットにそっと入れた。
「月の光じゃなくてBARのダウンライトの光じゃないのか?」
「さあ、どうかしら?」彼女は微笑みながら首を右に傾げた。
「よく飲んだな・・・・・・」
「ワイン、ビール、ウイスキー、日本酒・・・、それから焼酎もね。あなたと飲むお酒は美味しかったわ」
「毎日遅くまで仕事をして、それから遅くまで酒を飲んで。あれはいったい何だったのだろう」
「さあねぇ・・・、だけど私は楽しかったわ」
「そうか・・・」僕は職場とは違う彼女の愛くるしい笑顔を思い出した。
「ビール、飲むでしょ?」彼女から冷えた缶ビールを受け取った。銀色のステイオンタブを引っ張ると白い泡が湧き出てきた。僕は慌てて缶ビールの開け口に口をつけた。そして白い泡と麦色の液体を飲み込んだ。
「夕陽が沈むわ」彼女もビールを飲んでいた。夕陽の近くに漂っている雲は赤紫色になった。夕陽は焦るように水平線に沈んでしまった。
「ねえ、どうして急に仕事を辞めてしまったの?」彼女は紅い夕陽が沈んだ辺りを見つめながら訊いた。
「・・・・・・、うん」僕は上手く答えることが出来なかった。
「正直、私はあなたがいなくなったことが凄くショックだったのよ、いろんな意味で」
 僕は言葉を紡ぎ出そうとしたが何も出てこなかった。眼を閉じて彼女と一緒に仕事をした頃のことを思い出そうとした。彼女はオフィスで神経質そうに動いていた。時折僕と眼が会うとホッとした表情を浮かべていた。僕はその彼女の顔を見るといつも微笑みたくなった。
「ポン」と優しく左肩を叩かれる感触があった。僕が眼を開けると彼女の姿は何処にも見えなくなっていた。辺りはただ茜色に染まっていた。


 西に浮かんでいる水平線はまだ赤紫色に輝いていた。だけど東の空は藍色に染まり始め灰色の雲は夜が近いことを告げていた。
 僕から離れているところに水色のワンピース姿の妻が佇んでいた。潮風にワンピースが膨らみ肩まであるウエーブのかかった髪は揺れていた。
 僕は丸いサングラスをサマージャケットのポケットに入れて、くたびれた麦わら帽子を脱いだ。そして足早に妻の傍まで歩いて行った。
「やっと会えた。ずっと君を待っていたんだ」僕の声はくぐもっていた。
「そう? 私はずっとあなたの傍にいたのよ」妻は優しく微笑んだ。
「僕は君がこの世界からいなくなって、いろんなことが分からなくなってしまった」
「・・・・・・」妻は少し困った顔をした。
「あのさ・・・。僕も君のいる世界に行ってもいいかな?」
「私は・・・・・・まだ、それは嫌だな。あなたがこの世界を離れることは。勝手なこと言って、ごめんね」妻は俯いて恥ずかしそうに答えた。
 僕らはしばらく黙っていた。
「雲が流れているね」妻は東の空を見上げていた。月の横を白く光った雲が流れている。銀色の雲から赤と青の点滅している小さな光が現れた。点滅する二つの光は寄り添って白い月を横切っていく。そのジェット旅客機の黒い影が僕と妻の間を音もなく移動していった。
「君がいると、この世界は美しく見える」
「それはあなたが美しい瞳を持っているからよ」
「・・・そんな・・・・・・ことは・・・」僕は何度も首を振った。
「ねえ・・・・・・」妻の右手が僕の左頬に触れた。
「私はあなたのことがずっと好きよ」妻は涙を流しながら、困ったように笑っていた。僕は泣いて良いのか笑って良いのか、分からなかった。
「私は幸せだったわ。だから、あなたも幸せになってほしい」
「・・・・・・」僕は何を言って良いのか、やはり分からなかった。
 僕は二人を横切った影の在処(ありか)を追うように暗い空を見上げた。 白い月から離れていった雲は灰色に変わり夜空の闇に溶け込んでいく。そして赤と青が明滅したジェット旅客機は東の彼方へ消えていってしまった。


「ハイ! ほら、ビール!」僕の左頬に冷たく痛い感触があった。
「もぉー、やっぱり眠っていたのね! こんなところで眠ったら熱中症になっちゃうよ」麦わら帽子を被った少女は僕に冷えた缶ビールを手渡した。
「うわぁー、大きな入道雲!」少女は大きく眼を見開いた。そしてその意志的な瞳で膨張している積乱雲を見つめた。
「ねえ、あなたはここで海を見ているけど、あの入道雲も好きでしょ?」
「うん・・・」僕は少女の言葉に気圧されたように頷いた。
「私は夏の入道雲を見ると、何か新しいことが起こるような気がするんだ」少女は真面目な顔でそう言った。それから僕の方を恥ずかしそう見た。その黒い瞳は夏の夜空の星を宿していた。
 僕が高校時代にいつも夏の積乱雲を眺めていたのは、新しい何かが始まると感じていたのかもしれない。
「アッ! あの入道雲の下の方、灰色だ。下の方は煙っているみたい。夕立が来るかもしれないよ」少女は何故か嬉しそうだった。それから僕の顔を見て一瞬キョトンとした。
「ウフフフッ、あなた、今、少し笑ったでしょ。初めて笑った顔を見たよ」そういうと少女は麦わら帽子のつばを両手で押さえて立ち上がった。そして膨れ上がった積乱雲をまた見上げた。
「そろそろ街へ帰ろうか」僕は呟いた。
「エッ、何か言った?」
「いや、別に・・・」
「そうね。それが良いかもね」少女は夏の空に別れを告げるように両手を大きく拡げた。そして眩しそうに僕を見て優しく微笑んだ。
 

 寝苦しい夜だ。エアコンをつけっぱなしにしても嫌な汗が出る。設定温度を下げれば寒い。そういう夜が年に数日あるが、今日がまさにその夜だった。


『僕と妻と幼い娘は後部座席に座っていた。夜遅くまで雪が降っている。遠くの山の頂上付近には薄っすらと雪が積もっている。「この道は行けません」運転手はそう言うとハンドルを切った。そして畑の境目―白く細い小道の上に自動車の片輪を乗せて走行した。見事な腕だ!「お嬢さん、寒くありませんか?」運転手が心配そうに訊いてきた。僕と妻は幼い娘の肌に触ると、その肌は冷え切っていた。すぐに暖めねば!』


 僕の部屋のドアが開き、娘が辛そうな表情を浮かべて言った。
「咳がひどくて眠れない」
 僕は寝ぼけ眼で娘を見て、トイレに行き、薬を用意し水をコップに入れた。娘に薬を飲ませるとベッドで横になっている彼女の背中に手を当てた。
 娘の体は冷えてこわばっていた。
 僕は軽くマッサージをして、体のこわばりをとるように暖かい気を送り続けた。
 しばらくすると娘は静かに眠りについた。

 男は灰色の医師から余命数ヶ月と告げられた。彼はそのことに対して心が揺れ動くことはなかった。

男の体に痛みはなかった。ただ体内のエネルギーが不足している感覚はあった。

「これからは、好きなことをして過ごして下さい」灰色の医師は申し訳なさそうに言った。

「・・・はい」男はそう答えたが、自分がやりたいことが思い浮かばなかった。

 壁に掛かっている丸い時計の秒針がいつもより早く進んでいた。

 

 

 病室の窓から外の景色を見たり、屋上で爽やかな風に吹かれたりして男の時間は過ぎていく。

 屋上のベンチに座っていると白い少女が話しかけてきた。

「おじさん、楽しそうだね」

「僕はもうすぐ死ぬんだ」

「フーン」白い少女の反応は何の感興もなかった。

「おじさん、あたしはずっと病院で暮らしているんだよ」

「学校は行ってないの?」

「病院で授業を受けてる。ほら今はインターネットで勉強できるでしょ」

「うん」男は少女の顔を見た。

「おじさん、外の世界では戦争ばっかりしているでしょ?」

「えっ、そうかな?」

「学校だって会社だって家の中でも戦争ばっかりだってママが言ってたよ」

「確かに何処でも戦争しているなぁ」男はポケットから煙草を取り出して火をつけた。

「おじさん、戦争から逃げるために病院に来たんでしょ」少女の灰色の瞳がクリクリと動いた。

「ああ、そうかもしれないなぁ」男が吐き出した白い煙は二人の周りをグルグル回った。

「じゃあ、もう大丈夫だよ。戦争から逃げることができたから」

「そうかぁ・・・」

「そうだよ」白い少女はそう言うと手を振って何処かへ行ってしまった。

 

 

「・・・さん、調子はどうですか?」昼食後、ピンクの看護師が男のベッドにやってきた。

「まあまあです」男は面白くなさそうに言った。

「昼ご飯はちゃんと食べられましたか?」看護師はオーバーテーブルの上にある昼食のトレーを見た。トレーにはプリンだけ残っていた。

「あら、デザートはいただかないのですか?」看護師は舌なめずりをしながら訊いた。

「プリンは苦手です」

「朝食のヨーグルトも残していたわね」看護師は「ゴックン」と唾液を飲み込んだ。

「外は戦争ばっかりで食べ物が手に入らないのですか?」

「戦争ばっかり・・・? そうそう、そうねぇ。みんなが争ってばかりだから食料不足ね」看護師は頭を激しく上下に振った。

「食べ物を粗末にしてはいけないけど、僕、プリンは駄目なのです」

「そうなの、プリンを食べられないのね。だけど食べ物は粗末にしてはいけないわ。仕方ない。私が食べてあげようかな?」

「ええ、お願いします」看護師は男の返答を待たずにパクパクとプリンを食べた。一瞬でプリンを食べ終えた看護師は嬉しそうに男を見て言った。

「夕食のデザートは葡萄のゼリーなの」

「ああ、僕はゼリーが苦手なのです」

「そうなのね、外は食料不足なのよ。でも体が受け付けないものは無理しては駄目よ」

「はい・・・」

「また夕食後に来るわね」看護師はピンクの舌でピンクの唇を舐めながら部屋を出て行った。

 

 

「うーん、ここのオレンジジュースは絶品ですな! あなたもそう思いませんか?」休憩室で三つ揃えを着た黒い紳士はそう言うと、男の顔を覗き込んだ。

「そうですね」男は曖昧に返事をして紙コップのホットコーヒーを一口飲んだ。

「ところで、最近の円安には困りますなぁ。いったい政府は何をしておるのでしょうか」

「はあ・・・」

「やはり戦争ばかりしているから我が国は疲弊しておるのです。そう思いませんか、あなた?」

「戦争ばかりしているのでしょうか?」

「そうですよ、あなた。ほら猫族だって戦っているしょう」黒い紳士は勝ち誇ったように、自分の胸のポケットから三毛猫を取り出した。

「この三毛猫の長十郎君は我が国の次期大統領候補です」

「この猫が次期大統領・・・候補?」

「そうです。長十郎君がこの国の救世主です」

「この猫が救世主ですか?」男は首を捻った。

「あなた、まだお気づきになりませんか? 長十郎君は三毛猫なのにオス、つまり男性なのですよ。神に選ばれし猫なのです!」

「はあ・・・」男はまた首を捻った。

「そして長十郎君は『猫族のんびり・まったり世界選手権』の三年連続チャンピオン、絶対王者なのです」

「絶対王者ですか・・・」男は長十郎を見ると三毛猫は「アオウ」挨拶した。

「この長十郎君が我が国の大統領に就任すれば戦争は終わります。我々の待ち望んだ平和がついに実現するのです」

「なぜ長十郎君が大統領になれば、平和が実現するのですか?」

「だって、あなた、猫族は喧嘩嫌いでしょ」

「・・・・・・」

「おお、もうこんな時間だ!」黒い紳士は懐中時計を見ながら叫んだ。長十郎は黒い紳士の肩に飛び乗った。

「それでは失礼いたします。あなたのお家のマサナカちゃんには首相として長十郎君を補佐していただきますので。その節はよろしくお願いいたします。では、また」黒い紳士は一礼すると長十郎も「ニャニャニャニャニャ―ニャ」と別れの挨拶をした。

 

 

「フーム・・・」灰色の医師はカルテを見ながら思案していた。

「先生、ちゃんと言ったほうが良いですよ」ピンクの看護師が囁いた。

「わかった。大変言いにくいことなのだが、・・・さん、あなたの余命はあと五〇年だ」

「はあ・・・」

「大変ショックだろうが、気を強く持つように」灰色の医師は男の視線を避けるようにカルテを凝視した。

「明日の朝食のデザートはチョコレートケーキですって」ピンクの看護師が舌なめずりしている。

「僕は甘いものは苦手です」

「そうなの。確かに甘いモノばかり食べていると体に良くないわ。私が朝食の終わり頃に行くので待っていてね」ピンクの看護師の喉は「ゴックン」と大きな音をたてた。

 男は部屋の壁に掛かっている丸い時計を見た。時計の秒針は逆回りに時を刻んでいた。その秒針は時折止まり、それから慌てて四秒か五秒飛び越えて時を刻んでいた。

 

 

 病院の屋上は風が舞っていた。

「おじさん、今日は煙草を吸わないの?」白い少女は小さくなっていた。

「ああ、煙草は止めたんだ」

「体に悪いしね」

「そうだね」

「よいしょ」小さくなった白い少女はそう言うと男の座っているベンチに這い上った。そして男にピッタリと寄り添った。

「おじさん、この病院を出て行くの?」

「うん」

「外はまだ戦争やってるよ」

「うん、外は戦争ばかりだけど、僕はそこに戻らなきゃいけない・・・・・・」

 音もなく風が吹き抜けた。白い少女の柔らかい髪が揺れた。

「アッ、猫!」白い少女が指差すほうに白猫がゆっくりと歩いていた。

「ニャー!」白猫は男を見て鳴いた。

 

 

 男は眩しくて眼を開けることができなかった。彼の体は鉛を含んでいるかのように重かった。

「ママ! ママ!」耳元で聞きなれた声が響いた。

「あなた」いつも聞いている声だ。男の耳に引っかかる・・・。

 男は眩しさに耐えながらゆっくりと眼を開けた。目の前には驚いている娘の顔と不思議そうな妻の顔と不愛想な白猫の顔が並んでいた。

「もう大丈夫です」灰色のセーターに白衣を引っかけた医師が言った。

「良かったです。娘さんが言ったように白猫ちゃんが呼びかけたら、お父さん眼を覚ましましたね!」ピンクの制服を着た看護師が笑った。

「ここは?」男は訳が分からなかった。

「あなた、女の子を助けたのはまあ偉いけど、自分の歳も考えてくださいよ、もう」黒い服を着た妻は呆れていた。

「ママ、そんな言い方はないでしょ! パパはマンションから落ちた女の子を救ったヒーロー よ。女の子を受け止めたときに頭を強く打って意識不明だったの。覚えていない? パパ」

「うーん・・・」男のぼんやりとした返事に妻と娘は笑った。

「ねえ、ママ。差し入れのチョコレートケーキ食べない? パパが目を覚ましたお祝いに」

「そうねぇ。いただきましょうか。ずっとマトモなものを食べていないし」

「正中ちゃんもケーキほしいかなぁ?」

 白いワンピース姿の娘はケーキの入った箱を白猫に目の前にかざした。椅子に座っている白猫のマサナカはつまらなそうに横を向いた。そして男の顔を見て「ニャー!」と挨拶をした。それから上を向いた。

 白猫の碧い瞳には病室の壁に掛かっている丸い時計が映っていた。時計の長針と短針は⒓のところで重なっていた。銀色の秒針は一秒ごとに丁寧に時を刻んでいた。白猫のマサナカはそれを確認すると、「フッ」と一息つき、ゆっくりと碧い瞳を閉じた。

 

 赤色の風船にぶら下がり、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」の旋律にのって猫族がやってきた。ワルキューレ猫族と人類の命運を賭けた最終決戦の始まりだ。
 猫たちは青い鈴をつけて首とお腹に風船の紐を巻き付けて空を飛んで僕の部屋にやって来た。彼らは物凄いスピードでガラス窓をぶち破って部屋の中に入ってきた。そして壁や天井を猫パンチ、猫キックでボコボコに破壊した。彼らの最も恐ろしい攻撃は、口の中で鉄球を作りそれをミサイルのように発射するものなのだ!これでは人類は太刀打ちできない!
 そう言えば以前、猫は壁の中から出てきたと聞いたことがある。猫の体はとても硬いのだ。猫族のメンバーは白いちゃんちゃんこを着ている「白太郎」、首から黒いネクタイ模様のある「リーマン」、巨躯で怪力の茶猫「ドラ」。そして手足は短いが不屈の闘魂を持つキジ猫「マル」。それから韋駄天の「クロ」もいる。いずれも一騎当千の猫たちだ。
 司令官はうちの白猫タマちゃんらしい。彼女は人間の情報を完全把握して、猫族が決起する時を探っていたようだ。このままだと人間が地球をダメにしてしまうと思い、闘い嫌いの猫族がついに立ち上がったのだ。
 僕は雪が降るとガラス窓が壊れているので、部屋が寒くなって困ったなあと思っている。僕はとてもで寒がりで冷え性だから冬の寒さは体にこたえる。だから司令官のタマちゃんに「人類は反省してこれまでの悪行を正し善行を致しますから、皆さんどうかお引き取り願いませんか?」と哀願した。
「うにゃ」タマちゃんは蒼い瞳でクールにそう言った。
「にゃんにゃん」白太郎は僕の言葉を信じていない。
「にゃあにゃあ?」リーマンは考えてもいいのではと言ってくれた。
「・・・・・・」ドラは話すのが面倒くさいみたいだ。
「シャー!」クロは待つことができない。
「アーッ?」マルは武闘派だが意外と思慮深い。
「アウーッ、ニャニャニャニャ?」タマちゃんはそれなりの見返りを出せば考慮すると言ってくれた。
 僕は急いで電子レンジにトウモロコシを入れて加熱した。「ブーン」という音がしてポップコーンを作った。それを団扇であおいで冷ませた。それから中華そばををつくり、それも団扇であおいで適当な温度にした。最後にキャベツサイダーを出した。
「にゃーあ、あーっ」タマちゃんは納得してくれて、他のメンバーは一斉に食事をし始めた。彼らはどうやら空腹だったようだ。
 食事が終わると白太郎とクロは口の周りをペロペロなめてお掃除している。マルとドラは大人しく丸まって食べ物の消化は促進している。クロの奴は壁クロスで爪とぎしている。クロはじっとしてない。
 タマちゃんはしばらく瞑想していたが、カッと目を見開いた。
「にゃー!」みんなに号令をかけると白太郎たち5匹の戦士は紅い風船を装着した。司令官がステレオのリモコンのボタンをピンクの肉球で押した。またもワーグナーの「ワルキューレの騎行」が鳴り響き猫戦士は颯爽と帰って行った。
「フーッ」とタマちゃんは一息つき僕をじっと見た。
「今度は電気自動車に買え代えます」僕は慌てて言った。
「・・・・・・」タマちゃんは冷たく蒼い眼で僕を睨んだ。
「あっ、もう自動車は乗らないで自転車にします」僕はとっさに言ってしまった。
「うにゃ」タマちゃんはそう言うと何処かへ行ってしまった。

 

 高校3年のときのクラスの同窓会に出席した。といっても学年単位の同窓会なので、他のクラスの人間も混じり、結構な人数だった。

 僕は実に32年ぶり、つまり高校卒業以来の級友との再会となる。同窓会は時々開催されていたようだったが、僕には連絡がこなかった。それは何故か? 嫌われているとか問題があるとかではなく、単純に住所がわからなかったからだ。京都から愛媛に転居しただけだが、行方不明者になってしまった・・・・・・。今回は幹事を務めてくれた人たちが頑張ってくれ、僕のクラス約40人のうち、連絡がとれなかった人は1人だけだった。

 

 実は今回の同窓会は何故か非常に緊張した。案内をもらって参加しますと返事を出した時点から、妙に緊張したのである。50歳になった自分がどう見えるのか、また同級生はどう変わったのか、そんな心配もあった。しかしその緊張感の一番の理由は、おそらく人生の一番多感な時期にともに過ごした人たちとどう接すればよいか、わからなかったということだと思う。

 しかしそれは杞憂に終わった、嬉しいことに。中学、高校と同級生だった友達と話していくうちに、様々な記憶がよみがえってきた。とくに中学3年のときのクラスの雰囲気がリアルな感覚で思い出すことができたのだ。そう、当時僕たちは仲がよかった。今では信じられないかもしれないが、クラス全体がなんとなく仲がよかった。もちろんいろんないざこざや男女間でのややこしい? 感情のもつれもあった。でも全体的には親密だった。

 

 なぜだろう? 僕たちが少年だったときもおそらく今の少年たちとそれほど変わらないはずだ。繊細で傲慢で孤独を求め暖かなつながりを求めていた。たぶん35年前の15歳の世界は今よりもシンプルだったのだろう。当時、僕たち男子は丸坊主で、女の子たちは野暮ったいセーラー服を着ていた。僕たちは未来を漠然としか考えておらず、窮屈な校則にあまり文句も言わず、それでも1日1日が自分の手の中にあった。

 

 記憶はふだんは眠っていて、日常の生活に影響していないと思っていた。僕が何とか生き延びてこられたのは、家族があり友人がいて、愛する音楽や小説があるからだと思っていた。もちろんそれはそうだけども、様々な記憶が僕を生きさせているということも今ようやく理解しつつある。(僕は相変わらず愚かで無知だ)いったい僕たちはどれほどの記憶を持っているのだろう・・・・・・。

 中学3年の同級生と話していると、35年前の教室の情景が浮かんでくる。季節は秋で、窓からは弱い日差しが差し込んでいる。風はない。放課後、誰かの机のまわりに4、5人が群がってたわいもない話をしている。おそらく大した話ではないはずだ。だけど男子は変に意地をはったり、女子はうるさく笑ったりしている。確かに僕たちはその場所にいたし、そして今までずっと歩いてきたのだ。

 

 記憶というものは無意識のうちに、かなり変えることができるらしい。僕たちが共有している記憶は35年という時間の影響なのか、悪くないものばかりのように思えてくる。

 

「おい有村君、例の書類はできたかい?」 

「アッ、す、す、すいません。もう少しかかります」有村考一は、か細い声で答えた。

「あーっ、いいよ、いいよ。まだ会議には時間があるし」課長は投げやりにそう言った。

「有村さん、私、何か手伝うことないですか?」先週からパート職員としてこの職場に入ってきた越智菜々子が明るく言った。有村は彼女の元気さに気圧されるように「いや、別にないです」と黒縁メガネの中の小さな眼を見開きながら答えた。

「有村君。見神町二丁目三番地のゴミ収集でまたクレームがきてますわよ。あなた、ちゃんと対応したの?」係長は赤い眼鏡のフレームを動かしながら早く現場に行きなさい! と無言の圧力を有村にかけてきた。

「じゃあ、あたしも同行していいですか? 仕事を覚えるために、ねえ課長さん?」

「あっ、あああっ」課長は菜々子の若い美しさに圧倒されて首を縦に振ってしまい、既にそれを失ってしまった係長は憎々し気に課長を睨んだ。

「それじゃあ、よろしくお願いしまーす!」ミニバンの助手席に乗った奈々子は有村に顔を近づけ元気よく挨拶したので、中年運転手は思わずアクセルを踏み込みそうになった。

「アッ、ここですね」神社を登る階段の横にゴミステーションがあった。鉄製金網の中に可燃ごみの半透明ビニール袋が一つだけあった。今日はプラスチックゴミ回収日なのだ。

「有村さん、これ、どうするんです?」

「役所のゴミ焼却炉で燃やします」有村は申し訳なさそうに答えた。

「エーッ! このゴミ出した決まりを守らない人を見つけないのですか?」

「そういう人はたくさんいるのです」有村は元気なく言った。

「それで有村さんはよく外に行っているのですね」

「他にやる人がいないのです」

「エーッ、課長とか、女係長とか暇そうですよ」菜々子はピンクの頬を膨らませた。

「管理職は課内に居ないとダメだそうです」有村はゴミ袋をミニバンの荷台に入れた。

「うぇー、有村さん、超臭いです。窓開けていいですか?」

「はい、どうぞ」有村の返事を聞く前に菜々子はミニバンの窓を開けて外気を吸い込んだ。

「あれぇ?」暫くして運転している有村が不思議そうな顔をした。

「どうしたのですか、有村さん?」

「ひょっとして道間違えたのかもしれません。おかしいなあ。前もここに来たのに」

「いいじゃないですか、たまには気分転換も必要ですよ、少し臭いけど」菜々子は嬉しそうに答えた。

「ありゃー! 変な一本道に入ったみたいです。すみません、越智さん」

「フフフッ、面白そう」菜々子は楽しそうに窓の外を見たり、有村の生真面目な表情を見たりしている。ミニバンは薄暗い一本道を登って行っているようだった。その一本道の行き止まりには古ぼけた神社があった。野草が生い茂り背の高い楠や欅が周囲を覆っている。

「あれ? この辺りにこんな古い神社があったかな」有村はミニバンから降りて古ぼけた神社を眺めた。

「有村さん、この神社は人の手が入っていないようです。神秘的で面白そう」

「エッ? そうですか」小心者の有村は嫌な予感がした。

「ねえ有村さん、この神社の中に入ってみません? 凄いお宝がありかもしれませんよ」菜々子はそう言うと有村の返事を待たずに彼の右手を握って神社の階段を上がり始めた。若い女性に初めて手を握られた有村は激しく動揺しながら彼女について行った。

「土足のままで上がっていいのでしょうか?」有村は埃が積み重なっている床板を見た。

「あたしたちだったら許されると思います。それよりも孝一さん、開かずの間の扉が開いていますよ。フフフッ」菜々子は悪戯っぽく笑った。

「エッ、越智さん、あそこは神官さんしか入ってはいけないはずです」

「いいから、いいから」菜々子は有村にギュッとくっついて開かずの間に入って行った。有村は菜々子の柔らかい体の感触に呆然として、彼女のなすがままに歩いている。

「あれ、何か変ですよ。開かずの間なのに洞窟の中みたい?」有村は周囲を見渡したが殆ど何も見えなかった。彼は菜々子に優しく誘わられるようにフワフワと歩いていた。

「孝一さん、そろそろ出口ですよ」

 二人の前方が少しずつ明るくなってきた。爽やかな風が吹いてきて有村は大きく深呼吸した。真っ暗な洞穴から出ると、そこは草原が広がっていた。彼の眼下には白い砂浜に規則正しく波が打ち寄せていた。

「ここは・・・・・・?」

「相変わらず孝一さんは忘れっぽいですね。まあ座りましょう」菜々子は草原の上に腰を下ろした。それにつられて有村も彼女の隣に腰を下ろした。すると菜々子は頭を有村の左肩にのせて体を預けてきた。有村は自然に左腕で彼女の体を引き寄せた。

 陽は傾かず風は吹き止まず市役所勤務の中年男は空腹も尿意も感じなかった。

 ひとつの同じ時間が引き延ばされている。

(ずっと前もこの感覚があった・・・)有村はそう思った。

「孝一さん、あなたの住んでいる場所はもう壊れています」新任のパート職員は低い声で告げた。

「えっ!」

「今の様子を見ますか?」菜々子は前髪をかき上げて額を有村の額にくっつけた。

 その街は何もかも崩れ落ちていた。所どころ火の手が上がりどす黒い煙が漂っている。彼の勤めている五階建ての市役所も瓦礫の山になっている。

「何があったのですか?」

「あの場所に住んでいる人間は余りに汚れ過ぎていたのです。そして大地の怒りをかった。超巨大地震が発生しました。人々は自分の快楽と欲望のために他者を貶めて欺いてばかりいました。彼らは他の生き物も様々な恵みも貪欲に貪ってばかりいました。その罪のために罰がくだったのです」

「でも、どうして僕はここにいるのです?」

「孝一さん・・・」菜々子はにっこりと笑った。

「孝一さんはあの場所で唯一の優しい人です。お部屋の小さな蜘蛛を踏まないようにするしお話もする。お腹を減らした野良猫に鰯の干物を与える。毎日のご飯は感謝して一粒も残さない。野草を意味もなく駆除しない。足の不自由なお年寄りの荷物を持ってあげる。職場でも嫌な仕事を引き受けている等など。あの場所でこの世界を美しくしている人間はあなただけなのです」菜々子はそう言うと瞳を閉じた。

「そんな。僕なんかよりも優しくて思いやりのある人はたくさんいるでしょう?」

「孝一さん、時代の流れというものがあります。今は個人や会社の欲望が全てを飲み込んでしまって、正と負のパワーバランスが崩れてしまいました。分水嶺を超えてしまったのです。そうなるとまともな人たちも快楽の欲望に飲み込まれてしまいました」

「・・・・・・」有村は何も言わず目の前の変わらない風景を眺めた。隣に座っている菜々子の温もりが伝わって懐かしい喜びが沸き上がってくる。

「やっと巡り会えたのだから、しばらくここにいよう、孝一さん」菜々子は眩しそうに有村孝一を見つめた。

 有村は菜々子の言う通りかもしれないと感じた。一週間前に初めて越智菜々子に出会ったとき、強張った彼の体と心がゆるゆると解けていく感覚があった。

「僕も越智さんと一緒にいたいけど・・・」有村は突然立ち上がり、先ほどまで歩いて来た洞穴の出口に向かって走り出した。

「越智さん! やっぱり僕はあの街で何かしないといけないのです。ごめんなさい」有村は全速力で走り続け、彼の姿は洞窟の暗闇に消えていった。

「あーあっ、やっぱり。コウイチさんはいつもこのパターンだもの」菜々子は微笑みながら洞窟の出口に向かって歩き出した。

 

 

 きな臭いが黒い煙の中、有村はミニバンをゆっくりと走らせていた。彼の積み込んだ臭い可燃ごみ袋は無くなっていた。道路にはいたる所に建物の破片が散乱しており、大きな道路は軽自動車しか通行できない状況だった。主要道路のアスファルトは隆起して裂け、電柱が倒れていて通行できない場所がいたるところにあった。有村の運転するミニバンが市役所に到着できたのは奇跡的であった。

 鉄筋コンクリート造りの市役所庁舎は見る影もなく崩れ落ちていた。あれほどいた職員たちはどこにもいない。所どころから灰色の煙があがり無機質的な匂いがたちこめている。

「・・・・・・てぇ」有村が立っている右前方から聞き覚えのある女性の声が聞こえた。

「助けてぇ」今度は弱々しいがハッキリと係長の声が聞こえた。有村はハンカチで口を塞ぎながら声のする方向に走り出した。ロッカーや机、パソコンが積み重なっている中から係長の声が聞こえてくる。よく見ると係長の声がする場所は地下に空洞が出来ており蟻地獄のように様々な物が地下に吸い込まれている。

「係長!」有村は今にも地価の空洞に落ちそうになっている係長の左腕を掴んだ。

「こらぁ! 有村―ぁ。早く私を助けろーっ!」係長は鬼の形相で有村に命令した。部下は自分の体重の一・五倍はある係長を渾身の力で引き上げた。そして彼はその反動で巨大な空洞に落ちて行った。落ちていく途中、有村の顔の前に部屋にいる小さな蜘蛛がぶら下がっていた。その小さな蜘蛛は言った。

「ねぇ、コウイチさん。今度は早くあたしを見つけてね・・・」

 

 

 藤村公一はアルバイト先のファミリーレストランから出てきて駐輪場に向かって歩いていた。

「公一、そんな怖い顔していると、お客さんが逃げちゃうよ」彼の自転車の傍に立っている制服姿の落合奈々子が笑いながら声をかけた。

「奈々子、後ろに乗る? 歩いて帰る?」

「今日は後ろに乗る、フフフッ」

 サドルに腰を下ろした公一を奈々子はギュッと抱きしめた。人見知りで警戒心の強い公一はなぜ奈々子に心も体も許しているのか不思議に思っている。でも彼女といると安心と喜びと優しさが沸き上がって来る。そして奈々子は公一のそんな胸の内をお見通しだという顔をしている。

奈々子のことを考えても分からないのは若さのせいだと思い、公一は力強くペダルを踏んだ。

 二人を乗せた自転車は生暖かい夜の街を切り裂くように走って行く。