みなさん、湿っぽい日々が続いておりますがお元気でしょうか?めまい症のわたくしは気温、湿度の変化に弱く頭フワフワの時も結構あるのであります。ナフサ不足で自治指定のゴミ袋ない所も出ておりますが、幸いわたくしの住んでいる松山市は「可燃ごみ袋は半透明のビニール袋だったらいい」と言う、まあいい加減な姿勢なので市民は助かっております。わたくしなどは生協の購入品の冷蔵や冷凍食品を包んである半透明のビニール袋をゴミ袋に使ったり、娘の家にあるビニール袋を分捕ったりしております。
さて、そういうセコい男ですが昨夜は松山市民コンサートの例会、ベンジャミン・フリスのピアノ・リサイタルに行ってまいりました。この松山市民コンサートは良い音楽を鑑賞し、また音楽家を応援する清く貧しい団体です。(前身は労音です)そして会場は松山市民会館でこの市民会館はあと2028年3月で閉館になります。その結果松山市の造ったコンサートホールは無くなるということで、まさに文化不毛の悲しい松山市なのであります。
松山市民会館は能舞台もあり、多くの音楽家や芸能者、演劇団体が表現活動してきた歴史的にも貴重な建物です。ちょっと前はJR松山駅再開発として市民会館の代替のコンサートホールの建設という案もありました。しかし外人選手をいれて急に強くなった愛媛オレンジバイキングスの専用アリーナ建設が浮上し、コンサートホール建設は立ち消えとなりました。しかし先日、愛媛オレンジバイキングスの親会社が「専用アリーナは松山駅再開発地域には造らんです!」とクールに言い放ち、ショックを受けた松山市長は頬を赤くして半泣き、愛媛県知事は「松山市は早く駅前再開発せんかい」と呆れておりました。ということでまた駅前再開発地域にコンサートホール建設案が浮上したようで、是非とも松山市民会館の代替施設を建設してほしいと熱望するものでありあます。そして。能舞台も必ず付けてほしいものです。
話が斜めに行ってしましました。昨夜のリサイタル、ベートーヴェン三昧でしたが、フリスさんのピアノはよく語り力強く、また少年の淡い恋心も持っているとは、今年69歳になる男性としてはなかなかの人物です。そういう繊細な演奏は女性の琴線に触れるのか、リサイタル終了後のCD販売では沢山の女性が彼のCDを買ってサインを求めておりました。イギリス紳士は少しぐらい頭髪が薄くなっても品があって痩身で黒い服が似合うとモテるのでありましょうか?
今回のフリスさんの演奏したベートーヴェンはピアノ・ソナタ「月光」「ワルトシュタイン」「ハンマークラヴィーア」でした。わたくしが彼のピアノで感じたことはベートーヴェンは音楽で必死に人間精神の無限性を追求したのではないかと云うことであります。世界は無限に広がっていき、そこにはさまざまな自然の美しい風景や静物の躍動、人間の造像物が溢れている・・・。わたくしは世界のいろんな場所に行っていろんな風に吹かれたように感じたのであります。以前、同じく松山市民コンサート例会で五十嵐薫子さんの素晴らしい「ハンマークラヴィーアを聴いたのですが、この時は彼女のピアノから時間の永遠性を感じたわけです。ベートーヴェンは精神世界の無限性を追求しつつ自身の人間であることの有限性を認めて、それでもジタバタと挑戦し続けたことは少し哀しいけど凄い音楽家だと改めて思うわけです。
そしてわたくしはクラシックの良い演奏に接すると何故かジョン・コルトレーンのフリー演奏を思い浮かべるのです。コルトレーンのフリーパフォーマンスは果たして音楽と言えるのか?というくらい凄まじいものであります。(豚や牛の断末魔みたいの叫び?)彼が肝臓がんで死ぬ三か月前のライブ「オラツゥンジ・コンサート」などは音楽の枠組みすら壊そうとする印象すらあります。コルトレーンもベートーヴェンと同じく精神の神性・無限性を表現しようと願い、ついにあのような壮絶な前人未到の領域に達したような気がします。コルトレーンはベートーヴェンとは逆の語りで精神の内部の暴力性や衝動、感情の割り切れなさ、奇形的な連続性などを無意識で構築した音楽を解体することで表現したように思えるのです。音楽的な美しさはベートーヴェンの構成美にコルトレーンのフリーパフォーマンスは比較の対象にすらならないと思うけど、ベートーヴェンが目指した表現の極限の構造を解体すると、ひょっとするとコルトレーンの呪術的な叫びに通ずるかもしれません。