不育症 公的支援までの道① | 不育症から3 Rainbow Kids mamaになれました◡̈

不育症から3 Rainbow Kids mamaになれました◡̈

2013年に後期流産(死産)と早期流産を経験。不育症検査・治療を経て3人のレインボーキッズのママになれました!
不育症の公的支援依頼活動・天使パパママイベントにも関わります。
お酒・甘いもの・鉄道・地元を愛す保育園ママ8年目・ワーママの日常を綴ります♡

はじめに

Instagramの方で

不育症の公的支援を実施いただくまでのことを

つらつらとかいていたのですが

このたび、ようやくそちらの終わりが見えたので

ブログにも、Instagramからの転載という形で

書いていこうかなと…

結構、ブログに先に書いていた内容もありますので

ちょっと振り返りな内容もあります( ˙꒳​˙ )


*

▷▶︎▷▶︎201410

長女を出産後、3週間の里帰りを経て

自宅に戻りました。


眠れない

ママは自分の時間がない

辛い

苦しい


初めての子育てはそうなるんだと

ドキドキしながら始まった自宅生活。


ところが

幸い、長女はよく寝る子でした。


この後

息子次女と手がかかるようになることを

この頃はまだ知りませんでした…


赤ちゃんが生まれても

こんなに自分の時間が持てるなんて

嬉しい意外でした。





その日も長女がお昼寝している間に

パソコンを立ち上げて、ネットサーフィン。


とある女性向けのインターネット掲示板を

眺めていた私の目に止まったのは


「埼玉の不育症の方、おしゃべりしましょう」


というタイトルのスレッドでした。


私は2013年に後期流産(死産)を経験。

その後、初期流産も経て

長女が生まれました。


初期流産後に

夫か私の染色体異常を疑って

受けた不育症検査にて

私の抗リン脂質抗体症候群が発覚。


その日から

バイアスピリンと

自己を免疫を抑える漢方の

服用を開始。


次の妊娠がわかった日に

クリニックで自己注射のトレーニングを受け

その日から12時間おきに

ヘパリンという注射を自分で打ちました。


長女が生まれて4日後まで、合計449本。


ここに至るまでには

きっと当事者しかわからない想いがあります。


そんな想いを共有できるなんて。


ましてや、埼玉というコミュニティで。


インターネットが普及したこのご時世でも

近くに仲間がいる‼️というのは

とても嬉しいものでした。