火星の通信メッセージ -8ページ目

火星の通信メッセージ

チャネリングでマークさんという火星存在と交信し、地球の皆さんに伝えて欲しいと言われたメッセージを公開しています。

「今日は、地球の色についてお話しましょう。
地球は、青い星と呼ばれていますが、
実際には青と、そして白ですね。
雲が沢山ありますからね。
しかし本来地球は青く光っているのです。
(そうです、あの時見た星が、地球なのです。)
地球は(ハレーションを起こしているように)ボーッと
青く光っている。
それは地球のオーラと言っても良いでしょう。
それは地球の地核エネルギーから来ています。
地球そのものが生命体なのです。
あなた方も含めての生命体です。
その青い色に着目して下さい。
なぜ地球は青いのか。
これは、海の色ではありません。
地球を包むオーラの色です。
以上。」
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2016年10月7日  09:05頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

地球の衛星写真はこんな感じで、青い海と白い雲、そして大陸が見えます。


しかし、以前私が火星チームの宇宙船に行ったときに窓から見えていた星は、↑こんな星ではなく、むしろ↓こんな雰囲気に近かった…

(これは海王星の写真です。)
 

窓の向こうに、こんな感じの青く光る大きな惑星が見えていて。
「これは何かな?海王星かな?地球だったら雲や大陸が見えるよね?」と、1人頭の中で思っていたことがありました。


なぜそれが地球に見えなかったかと言うと、大陸や雲といったものが見えなくて、とにかく青くぼーーーーっと光っていたから。
上の海王星の写真をもっとピンボケにして光らせた感じの印象。


↓これらも地球の写真なのですが、こんな感じに光ってたし、光のもやがまとわりついてるようでもあったかな。
 

あんまりはっきりとは覚えてないんですけど。。。

 

ぼーっと光っていたあの感じからして、それがオーラだと言われたら、そうかもね、と思う。
(だから何?、という感じでもありますが…)

 

海の色が青だから地球が青い、というわけでは無いのだとしたら。
なぜ地球は青いのか、青く見えるのか。
それがオーラなのだとしたら、なぜ青色のオーラなのか。

 

ちょっと検索している時に、松田聖子さんの「瑠璃色の地球」という曲を発見。
動画「瑠璃色の地球」松田聖子


でも、瑠璃色…っていう感じでは無かったなぁ、と思う。
もっと明るく光る感じで、やっぱり色的には海王星の色に近いと私は感じていたのです。
瑠璃色って、ラピスのような深い青色ですよね。
それはむしろ、実際の衛星写真で見る海の色なのではないかと。


地球も月も、自ら光ることは無く、太陽の光を受けて光ると言いますが。
でも、私が見たあの惑星が地球なら、まるで自らが光を発しているかのように、ぼーっと光っていました。
しかもかなり明るく光っていました。
私たち人間も、オーラという光を放つ発光体であるのなら、地球が発光していてもおかしくはない気がします。

「今日は、未来についてお話しましょう。
未来とは、あなた方の考えているようなものではなく、
もっとはっきりとした形で存在していますが、
入れ替え・書き換え可能な状態と言うのか、
とにかく、常に変化している状態にあります。
もちろん、「過去」もそうなのですが…。(そして、「現在」も。)
確固たる未来があるとして、人は動きます。
決して、もやの中を動いたり、選択したりしているのでは
ありません。
しかしその確固たる未来は、いつでも自由に選択可能
なのです。
あなたが、今日の昼食を、カレーにしようかうどんにしようか
と考える時、そこには(2つの)確固たる未来があります。
その2つが、未確定な領域に浮かんでいます。
それを選択するのがあなた自身なのですが、
選択肢は常に更新される可能性があるので、
「今」の時間の経過とともに、目の前の選択肢が
変わっていくように思えるでしょう。
しかしそれら1つ1つは、じわじわと変化していく
ようなものではなく、1つ1つが確固たる未来の1つ
であるのです。
私の言うことをよく聞いて下さい。
変化は常にあります。変化こそが常です。
しかし、その変化の中の一片一片は、
1つの確固たる存在、1つの現実なのです。
そのことを忘れないようにして下さい。
以上。」
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2016年10月6日  09:30頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

今回は、書き出しながら、途中で止まって考え事をしていたりしたので…
終わらせるまでに随分と時間がかかりました。
 

これは、「未来」という概念が、実際に5次元以上の空間ではどのように存在しているのか?という話だと思いながら、書き出してました。
バシャールはこういうのを、可能性のスープとか言っていたと思います。
そのスープという単語から私が思い浮かべていたのは、まだ形を成していないもの、という感覚でした。
そこからだんだんと可能性が高まるにつれて、直近の未来の1つが形作られていく、というような感じで受け止めていました。
それに対して今回の通信は、確固たる未来、という表現が出てきていたので、これを理解するために途中で考えをめぐらせていたのでした。
あと、通信中にずっと、パラレルワールドのことが浮かんでいました。


今ここの自分が、未来の自分を意識した瞬間、すでにその未来は形作られているのだろうと思います。
だからそれはすでに、確固たる未来になっている。
その確固たる未来が複数存在するのが、私たちの考える未来という時間軸。
そのように私は受け取りました。


大雑把に言うと…
スタバに行くか、モスバーガーに行くかで迷っている時、そこにはすでに、スタバに行っている自分という未来と、モスに行っている自分という未来の2つが存在している。
(あと、ハイアーセルフの見ているところの未来も存在しているのだと思います。)
それらが、まだ確定していない未来とともに、空間上に浮いているようなイメージ。


そのうちの1つの未来を選択し、そして今ここのポイントに実現させるのは、パラレルの世界をジャンプするとバシャールが言っている、あの感覚のように思います。
それは大雑把なジャンプではなくて、毎瞬毎秒、物凄い数のジャンプを行って常に移動している状態。
それをバシャールは映画のフィルムのコマに例えて話していました。
平行する別の現実への移動なのだから、フィルムは当然1本ではなく、沢山の似たようなフィルムが平行して存在していて、そのフィルム間をジャンプして(今ここの意識を)移動させているのが、私たち人間という存在なのだろうと思います。


そして、「未来」も「過去」も「現在」もどうやら同じ仕組みのようです。
つまり、何万という種類の未来の写真と過去の写真と今の写真とを、部屋の中に敷き詰めて、そこにレーザーポインタを当てて一枚ずつ写真を見ているとしたら。
そのレーザーの点の当たったところが、顕在意識で自分が意識している「今ここ」ということだと思います。
過去の写真にレーザーを当てている時は、過去を回想している時。つまり過去のその瞬間のデータにアクセスしている時。
そこで変容を起こせば、過去を変えることができる。
それは、事実の部分は変えられないけれども、その体験に乗っている自分の感情・受け止め方は変えられることができる…という意味かと思っていました。(嫌な思い出が、見方が変わることによって、むしろそれで良かったのだと思えるようになるような。)
しかし、もしかしたらそうでは無いのかもしれません。
本当に、過去は入れ替えることができるのかもしれない…。
でもそのためには、もっともっと、知っていかなければならないことがあるのだと思います。

「今日は、心の響きについて、お話しましょうか。
人の、心と心は常に響き合っています。
それは占星術のアスペクトのようなものです。
個々の、個性が、響き合う。
その響き合いは、もし人間が一つにつながって
いた場合には、起こりません。
なぜなら、「個」では無いからです。
分離の状態にあるからこそ、個性が生まれ、
そしてそれを互いに響かせ合うことができるのです。
何と美しいことでしょうか…。
一見、不協和音のように感じるものも、
ハードアスペクトのようなもので、
そこにも意味、そして一つの形としての美しさが
あるのです。
例えば、「醜さ」や「苛立ち」という、型としての美しさ、
ということです。
そこにどういう感情をのせて見るのかは、
あなた方次第なのですが、その響きの型それ自体
には善悪を超えた美しさがあります。
それを体験しましょう。(^^)
以上。」
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2016年10月4日  12:10頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

今日は朝から自分の出生のホロスコープを眺めていたので、占星術用語が出てきたのかもしれません。
アスペクトとは、ホロスコープ上で複数の惑星が特定の角度で位置した時に生じる表現、という感じです。
書き出しながら、一人ひとりの人間の存在が一つひとつの惑星のように思えていました。


昨日の通信66に出ていたような「魂が分離していない状態」においては、個の部分、つまり、違いや差の部分を感じられないために、「別々のものが関係することによって響き合う」という体験は起こらない。
「個」の部分を感じているからこそ…なところ(表現)が、あるってことですよね。


ハードアスペクトは、一般的に見てあまり心地よくは無い関係性(表現)です。
今回例えで「醜さ」とか「苛立ち」と出ましたが、誰かとの関係性で表現されるものが醜かったり、何かにつけてイライラする関係性の時とか、長い人生の中でありますけど。
そういう醜さやイライラでさえも、一つの「型」にしか過ぎない。


狂言などで、感情表現としての型があると思いますが、たぶんそんな感じ。
怒りも憎しみも嫌悪も、そういう感情そのものは一つの「表現」でしか無い。
そこに、善悪とか、心地良い・悪い、という判断を上乗せして見ているのは自分自身。
ケンカにしても、自分と相手とが、顕在意識で知り得ぬところで合意の上で、行っている。
それは、ケンカとうい方法で表現したいことがあったから。
そして、そこから学びたいことがあったから。
その様子が、マークさんとかから見たら、美しい有様に感じるのだろうと思います。
心地の良い調和の在り方だけが美しい、というのでは無いような感じ。
全体との調和をめざす途中にある学びの課程においての表現である不協和音も、やはり美しい、ということだと思います。


そしてその、和音や不協和音の響き合いの美しさは、体験してみないとわからないことなのだ…と思いました。

 

「今日は、光の話をしましょう。
光の世界には、人が沢山います。
それらの人々は、皆、一体になったり離れたりしていますが、
どちらも変わりなく、全体と自己を感じています。
光の世界では、それが普通で、
離れていても、それは分離ではないことを知っています。
しかし、あなたがた3次元の世界では、
離れていることは、分離になるようにできています。
それを利用しての学びがあるから、そうなっています。
そこに気付いていましょう。
以上。」
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2016年10月3日  08:50頃(フランス時間)に書き出したものです。

今日は、ほぼ書き終わるかなという所でスカイプを始めることになったので、一旦ペンを置き、最後の一行は後から追加で書きました。
(続き、できる?と聞いたら、できますよ、と言われたので。。。)
でも、あともう一行ぶんぐらいありそうなのに、それはうまく出せませんでした。

今回出てきた“光の世界”とは、高次元世界の話だとは思いますが、どの次元とかいうことは全くわかりませんでした。
書き出しながら、アメーバのようなものが見えていました。

沢山の光の存在が、一体になったり離れたりしている状態というのは、ワンネスを感じたり個の部分を感じたりしている私たちと同じだと思います。
目に見える部分だけにフォーカスをすると、どうしても、自分たち人間を一人ひとり「個」として存在している生き物だと思ってしまいがちですが。
それは決して間違いではなく、かといって、全体として一つにまとまることだけが全てでも無い、といった感じでした。

書き出せなかった最後の一行は、全体としての部分と、個としての部分を、同時に感じる…といった感じだと思うのですが、イメージでは浮かんでいるのに、なかなかうまく言語化できなかったです。

「今日は、人について話しましょう。
あなた方、“人”のことです。
人は誰しも、生きて死んでいきます。
そこに例外はないのですが、唯一例外となるのが、
その人が宇宙から来た存在であった場合です。
(ここで、イエス・キリストの姿が見えていました)
キリストは、一応地上で死んだことになっていますが、
それは本当の“死”ではなく、その後復活していること
からもわかるように、それは一つのプロセスでした。
それを示すために、彼はそうして、
死と復活を演じたのです。
ブッダもまた、同じでしたが、彼は復活を見せることを
望みませんでした。
あなたがたも、このプロセスを選ぶのであれば、
そうなることができるのです。
それは、死後どの次元に行くのか、とも言えます。
復活したければ、復活することができます。
道はどんどん続いて行くのですが、
どこに行きたいか、なのです。
以上。」
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2016年9月30日  11:15頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

今回、この通信を書き出して、私の中で見えた景色は、とても新鮮なものでした。
つまりこれは、私たちもイエスと同様に復活(輪廻転生)をする、ということだと感じました。
その際に、イエスは「復活の姿を見せた後に、高次に戻ること」を選ばれた。
私たちは、「三次元での学びを続けるために、再び地球に生まれてきた」ということなのだと思います。
そういう魂の不滅、輪廻転生のプロセスを見せ理解させるために、イエスは自ら復活した姿を見せた。
そうなると、それは奇跡でも何でもなかった、という感じがします。
(魂の世界においての、当たり前のプロセスというか。)


復活のプロセスが、肉体を脱いだ後で四次元(?)を通して行われると、それは「輪廻転生」として我々に認識されるが、復活のプロセスがそこを介さないで死の続きで行われた場合に、いわゆる奇跡的な復活として認識される、という違いのように感じました。


自分が「死」というプロセス(肉体を脱ぐ)を通過した後に、一体どの次元で何をやりたいのか?
それによって、次の行動、そして復活する先が決まってくる。
もしも、自分の魂が「人々の前で復活劇を見せる」と決めて生まれてきていたら、イエスのように死後に地上で復活することができる…ということなのかもしれません。
ただし、きっと、踏むべきステップがあるから、いきなり段飛ばしで階段を上がることはできないのかもしれません。
だからこそ、唯一例外となるのが宇宙から来た存在(すでに三次元をマスターしている存在)ということなのかも。