ねおす銀河ネットワーク

 

 

大学院修士課程を修了する年の3月、アラスカ大学の野生動物学講座への留学を考えていた。

しかしながら、すぐに行ける準備は整っておらず、まずは修士まで籍を置いていた講座の博士課程に入り、そして留学に向けてTOFLE受験(英語の試験)、行きたい講座の先生と連絡をとって編入の依頼(of course英語)、奨学金などの準備をしようと考えていた。結構遠く険しい道のりだ。

その時、就職の話が舞い込んできた。

阿寒摩周国立公園 川湯温泉に環境省が新しく作るエコミュージアムセンターのスタッフを探しているという。

ネオスという札幌にある任意団体からのお話だった。

ネオスが弟子屈町から委託を受けて川湯エコミュージアムセンターへスタッフを派遣するというのだ。

ネオスとは、「北海道自然体験学校NEOS」という高木代表が主宰するエコツアーや環境教育を行う団体だ。

学生だった私は、時々ネオスのイエティクラブという子どもの自然体験活動を手伝っていた。そんな繋がりがあって、川湯への新規スタッフ募集の際に声をかけてもらい、アラスカ大学よりもイメージのしやすかった川湯へと気持ちが盛り上がり、合格していた博士課程は辞退し就職を決めた。

ネオスとの出会いがなければ、今、私は道東に暮らしていなかったと思う。

 

最初にネオスを知ったきっかけは、「RISE」という雑誌に宮本さんが書いていていた記事だ。

「子どもの成長には3つの間が大事だ。時間、空間、仲間〜」という話題が、なんとも愛と情熱溢れる文章で綴られていて、私は痛く感動し、すぐに記されていたネオス事務所の電話番号に電話をかけて、イエティクラブのお手伝いをするようになった。

あの頃はまだ携帯電話を持つ前だったので、農学部の講座の教室にあったダイヤル式の黒電話からかけた覚えがある。

 

1999年に私はネオスに入団、2000年にはネオスはNPO法人ねおすとなる。

2000年にNPO法人(特定非営利活動法人)という新たな法人格が世の中にでき、ねおすは北海道で2番目のNPO法人に登録。ちなみに北海道で1番目は、倉本聡さんが主宰する「富良野塾」だそうだ。

ネオスは、札幌の会員さん向けに山のガイドをしたり、子ども向けの環境教育活動などを行っていた。

北海道ではまだ数少なかった環境教育団体で、行政との協働も年々増えており、いろんな地域の町づくりや交流施設の立ち上げ支援、環境系ワークショップや自然ガイド養成講座などもやっていた。

活動の幅も広いけれど、人材も多彩だった。

高木さんは一つ上の次元で物事を捉える仙人のような人、樋口さんはプロフェッショナルな山岳ガイド、宮本さんは道産子で北海道愛溢れるクリエーター。

すごい仕事量をこなすパワフルで完成度の高い職人集団でありながら、普段は気さくでユーモアのあり、時にお酒を飲みながら熱く語らうこともあった。

 

私は今自営でガイド業をしているが、それ以前に雇われて働いた経験はネオスだけなので、他の会社組織をあまり知らないのだが、ネオスは働きやすい職場だったと思う。

新しい分野の仕事を創造するという理想をライフワーク的に体現していて、お給料はそんなに高くなかったし、先の見込みも不明だったが不満はなかった。

組織のあり方は、確固とした序列は全くなく、緩やかに尊重し合っている感じ。

結構人の入れ替わりが激しい環境教育団体の中で、「ねおすは人が辞めない」と言われるほど風通しの良い職場で、高木さん、樋口さん、宮本さんの寛大な人柄が大きかったと思う。

祖父のような高木さん、父のような樋口さん、兄のような宮本さん、ねおすという大家族。

高木さんとは時々二人で札幌から川湯まで車で移動することがあり、私は問われるがままに思ったことに伝えたり、また晩酌時には酔った勢いで持論を展開したりと、今思うと生意気な新米者だった。高木さんは聞き上手なのだ。

 

私は川湯エコミュージアムセンターで自然情報の収集と発信、自然体験行事の企画、ガイドなど行っていた。

オープンしたばかりで試行錯誤の繰り返し、スタッフは私ともう一人は自然公園財団の所属の方。

やりたい方向性のすり合わせをしながら奮闘する、大変だけど楽しい毎日だった。

学生時代インプットに明け暮れた私にとって、ねおすはアウトプットの実践の場であった。

このような仕事をするうちに、自分の専門分野である動物生態学をテーマとした環境教育に興味が湧いてきた。

年に何度かネオスの全員が研修所に合宿し、今後のねおすの方向性、組織のあり方、個々の目標などを語り合う場があり、そこで私は数年後の起業を目指す目標を立て、ねおすが起業をサポートするという展開となった。

2年間川湯エコミュージアムセンターの専属スタッフとして勤務した後、「野生動物に特化した環境教育」を掲げた事業での自立を模索し始める。

独立するまでの1年間は、サポートスタッフとして年の半分をエコミュージアムセンター勤務、その他は札幌事務所でねおすの仕事を手伝いつつ、自分の事業立ち上げの準備をする。

その翌年からはねおすの所属を離れ、個人で独立。デスクはねおすの札幌事務所に置かせてもらい、たまにねおすの仕事のお手伝いを単発で受ける〜という形で支援してもらいながら徐々に起業を進めていった。

ねおすの仕事の手伝いは楽しいことが多くて、札幌近郊の山のガイドのサポート、ねおすのガイド養成講座の学生達への授業、中でも21世紀をネパールで迎えるトレッキングツアーにアシスタントガイドで連れて行ってもらったのは、貴重な体験だった。

川湯エコミュージアムの仕事も好きだったので、私としては川湯半分、ねおす半分がちょうどよかった気もするが、流れは起業へと進んでいて、私はそっちへと流されていった。

 

ねおすは組織を大きくしていくという図式ではなく、それぞれが将来的には独立し、緩やかに繋がりながら広がっていくイメージを高木さんは持っていて、「ねおす銀河ネットワーク構想」と名付けていた。

普通の会社では、なかなか個性を発揮したり、自立してゆくような道筋は後押しされないかもしれないが、ねおすだからこその大胆な人材育成システムだ。

 

結局、「野生動物教育研究室WEL」をなんとか立ち上げ、私は自走し始めた。

収益面ではなかなか厳しくもあり、助成金を申請しながら経営していた。

その頃誕生したのが、ロングセラーの「ヒグマかるた」です。

事業を軌道に乗せるより前に結婚の機が訪れ、生業の基盤は夫と営むカヌーガイド業へと移行してゆき、WELの活動は副業として細々と続いている。

 

起業、独立への道筋は様々であるが、その後も多くの人がねおすを離れ、新たな拠点を創造してきた。

その後、ねおすは解散するが、ねおすが育んだ人と場は地上の星として今も輝き続けている。

黒松内ぶなの森自然学校、大雪山自然学校、勇知自然学校、てしかが自然学校、いぶり自然学校、丸山自然学校、スーホの森の保育園などなど、ねおすが創造した拠点は今も育っている。

個人でガイドをしている人、環境教育とは直接関係ない仕事をしている人も含めて、ねおすから巣立って行った人たちが繋がりを保ちながらそれぞれに活躍している。

数年前、ねおす同窓会が函館大沼で開かれた時も、皆全国から駆けつけ総勢60名ほどの盛大な集いとなった。

ねおす銀河ネットワークは、年月をかけて成長し続けている。

 

ふりかえると、かなり恵まれた職場だったと思う。

しかしながら、私にとってやりがいのある反面、精神的にはきつくて、生活も荒れていた。

自分自身にダメ出しばかりだしているからだ。

自分を大切にできず、自分に刃を突きつけながらずっと生きてきたように思う。

だから、幸せでいいはずなのに、その頃は仕事には打ち込むけれど、仕事から離れるとぐったりと疲れて、夜はお酒を飲んでそこでやっと寛げていた。

ねおすのみんなが魅力的でいい仕事をして周りに愛を放出していることを敬服する余り、自分の不足ばかり目について、いつも変わらなくてはと思い詰めていた。

ありのままの自分を認めてあげれずにずっといたけれど、最近ようやく「がんばってるね。大丈夫だよ。」と自分に言ってあげれるようになった。

ねおすの頃を思い出すと痛みを伴ってしまうのであまり語ることができずにいたけれど、自分を許容できるようになった今、やっとねおすのことも話せるようになった。

バツにばかり目がいってしまいがちだけれど、小さなまるもつけてあげよう。

丁寧にまるを探すことで、自分を労わる気持ちも生まれてきた。

 

銀河の星は一つ一つ、自ら輝いている。

空全体に無数の星が散らばって、光を放っている。

自分の軌道を描きながら、寿命まで燃え続けている。

ねおすから巣立っていた人たちも思い思いの場所で、

ねおすと関わりのない人たちもそれぞれの好きな場所で輝いている。

周りが真っ暗で心細くなることもあるかもしれない。

自分の描く軌道が先行き見えず不安になることもあるかもしれない。

でも、この世界は、目に見えないけれど大きなものに守られていて、ゆるやかに繋がりながら、回り続けている。

一つ一つの重みが、地球の自転に、銀河全体に、影響を及ぼし合って成り立っている。

一人一人の存在は星の輝き。

名もなきたくさんの星の輝きがあるから、銀河は美しい。

夜空を見上げた時、一つ一つの星の煌きに胸が熱くなる。

銀河に渦巻く命の輝きは、美しく響きあう。

その響きを感じられるように、いつも心を澄ませていよう。

自分を優しく抱きしめながら。