北大クマ研

 

私がクマ研に入ったのは、1993年に北大に入学した年だ。

今の私は、クマ研31年目になる。

月日が流れるのは早い。

でも、クマ研時代は私にとっては忘れ難く、私の心の基盤はこの時期培われたように思う。

もしクマ研に入っていなかったら、今の私と全然違う自分だったと思うし、だからクマ研に出会えたことは私にとってはとても大きな救いであった。

クマ研は、一般社会とは別次元の集団だった。

 

大学に入ったら山登りがしたいな〜と思っていた私。

ワンゲルなども見学に行ったけれど、本格的山行で厳しさに怯んでしまった。

たまたま勧誘を受けたクマ研の雰囲気が一番自分に馴染んだ。

ゆるいのだ。

そして、なんとなくみんな変わってる。

見た目も話すこともやることも。

変わり者ぞろい。

と書くと、ただの変人の集団になってしまうけれど、それだけではない。

不器用だけどあったかくて、がさつだけど寛大で、変人なだけあってこだわりが凄い。

その凄さは、大人になったクマ研の多くの人達が、大学の先生、研究機関の研究職員、行政の専門官などになっていることに象徴される。

けれど当時は、将来大学の先生になるなんて想像できないくらいかなり変わってて、失礼ながら就職できなさそうに思っていた。

そんな変なクマ研に馴染んだいた私も、相当変わり者ということだ。

 

入部(部じゃないけど)するとすぐに先輩方が山道具を買いに秀岳荘に連れて行ってくれる。

秀岳荘は、札幌の北大の近くにある老舗の山道具屋さんだ。

山で必要なありとあらゆる物が揃う宝箱のようなお店。

暇な時は秀岳荘へふらりと出かけて、山道具を見るのがあの頃の楽しみだった。

その秀岳荘で、まずヤッケを買わされる。

ヤッケは防水ではなくウインドブレーカーのような物で、クマ研のユニホームと言ってもいい。

クマ研に限らず北大の山系のサークルは、秀岳荘ヤッケを着ている人が多い。

かっこいいかというと、あまりかっこよくはない。

mont-bellとかpatagoniaとかに比べると、格段にダサいであろう。

けれど、当時はみんな山に行く時はだいたいヤッケを着た。

それが自然だったからだけれど、振り返ってみると、ヤッケを着ることで皆と一体感を共有していたのかもしれない。

 

ヤッケは秀岳荘オリジナルで、赤と青がある。

クマ研の中でも赤を選ぶ人は特に変わり者であることが多かった。

私は青ヤッケなので、クマ研の中では比較的まともな方だ(と思う)。

このヤッケ、かなり丈夫である。

クマ研のホームグランウンド北大天塩演習林での調査は、道のない山を地図とコンパスで踏査する。

天塩の林床はチシマザサが生い茂っていて、時に「藪漕ぎ」と言って、藪を掻き分けて進む。

チシマザサ 通称「根曲がり竹」は、背丈も高く、親指くらいの太さのある笹で、押して倒して跳ねかえってくる笹に当たるとかなり痛い。

そんな藪漕ぎをしても破けない丈夫なヤッケである。

少々破けても、ガムテープを貼って補修しながら着ていた。

ここ天塩で採取したササノコは、6月の北大祭「ヒグマ亭」で販売し、貴重な調査の資金源にもなっていた。

 

何の調査をしているかというとヒグマの調査である。

クマ研は、娯楽としてのサークル活動でありつつ、かつ真剣な調査活動を行うことを本来の目的としている。

ヒグマ研究グループでだけあって、結構専門的な調査を長年続けていて、ヒグマを調査している人が少なかった時代、クマ研究の第一線を走り続けてきていた。

ちなみに去年2022年がクマ研50周年であった。

天塩の他、大雪、知床、富良野、日高、道南などでも調査活動をしている。

調査は言い出しっぺが最後までやる方式で、こんな調査をやりたい!と言い出した人が、毎週1回ある例会に計画案を提出する。

そこで様々な議論を経て、調査が認められると、立案者が隊長となり、参加したい人を調査の都度募って実行する。

複数の調査が並行して進められていて、好きなフィールドへとそれぞれが出かけていた。

毎週の例会の後は、「多良福」という居酒屋さんに集った。

もっぱら一升瓶の焼酎GODOを飲みながら、夜更けまで語り合った。

 

私も2年生になった時、富良野調査を計画し、富良野隊長として2年間調査を行った。

テーマは、「ミズナラの豊凶とヒグマの食性の関係」である。

研究成果は野生生物保護学会で発表し、その後、調査を継続・発展させてくれたさとうさんが、論文にもまとめて哺乳類学会の学会誌にも掲載された。

真剣に研究に打ち込む人もいれば、飲み会だけ顔をだす人もいたり、運転が好きでドライバーを買ってでてくれたり、山歩きが好きで頻繁に調査に参加してくれたり、それぞれが好きな立ち位置で自由に活動できたのもクマ研のいいところである。

 

当時、「雑麓庵(ぞうろくあん)」というクマ研の数名が共同で暮らしている一軒家があった。

今でいうシェアハウス。

その頃の札幌市にはこのような古い家が点在していて、大家さんのご好意により学生に格安で貸してくれていた。

雑麓庵には学年も色々なクマ研の男子学生が5人ほど住んでいた。

玄関の鍵はいつも開いていて、ふらりと立ち寄ると居間のこたつに誰か彼かいて、漫画を読んだり、雑談したりしていた。

こたつの上には 雑麓庵ノートが置いてあって、たわいもないことが徒然に書かれていた。

私も用が特になくてもなんとなく寂しい時とか、雑麓庵に立ち寄り、特に何するでもなくこたつを囲んだり、ノートに書き込んだり、時には夕ご飯を作って一緒に食べたりして過ごすことがあった。

クマ研の9割以上は道外から来ている学生だ。

親元離れ、初めての一人暮らし。

そんな学生にとって気軽な交流できる場、気安い仲間は本当に有り難い。

その後、近所の「珍萬亭」という一軒家に同期のメンバーが住んだり、先輩達のアパート「翠天楼」あり、私も後に「水楢亭」で女子3〜4人で一緒に暮らす経験をした。

それらの一軒家は老朽化により、今はもうとり壊されてしまった。

珍萬亭の住人の一人は手先が器用で帽子を自分で縫ったりする裁縫男子だ。

兵隊さんが被るような灰色の帽子は、彼にとても似合っていた。

 

私が新入生で初めて参加した調査は、春期天塩調査である。

道北は問寒別の小さな無人駅に降り立つと先輩が車で迎えに来てくれた。

牧草地の中を走り抜け、16線小屋に向かう。

天塩調査のベース基地「16線小屋」は、2階立てのプレハブ小屋だ。

工事現場にあるようなプレハブの2階に雑魚寝する。

いろんな人が入れ替わり立ち代り調査に入っていて、新入生がやってくるゴールデンウィークの頃が一番人数が増えて40名近くになる。

先に入ってる人達の寝袋がところ狭しと並んでるその隙間に自分の寝袋をひいて寝た。

調査には2〜3人のパーティーに分かれ、各ルートを歩いてクマの痕跡(足跡、食べ跡、フン、爪痕など)を探す。

お弁当を持って出かけるが、「ビニ弁」と言うビニール袋にご飯を詰めて、ふりかけや野菜炒めなどを入れた行動食だ。

クマ研の調査時以外には持っていくことのないビニ弁だけど、調査の時に食べるととても美味しかった。

 

天塩調査はクマ研創立時から続いているフィールドで、隊長は代替わりしながらも毎年続けたられていた。

道北では春グマ駆除が盛んに行われていた。

春グマ駆除とは、1960年代から続けられてきた北海道のクマ防除政策である。

現在の駆除は農作物被害などがあった場合に限り、許可が出て行われるが、その当時は被害の有無に関係なく、予めクマを駆除するようなヒグマ根絶を目的とした政策であった。

これはエゾオオカミ が絶滅に至ったのと同じ考え方であり、そのため道北のクマは減少の一途を辿っていた。

道北は北海道の中でも雪が多く、春先まで山に雪が残っているため、冬眠明けのクマをスノーモービルで追跡し、駆除しやすい環境だったせいだ。

1990年にヒグマを北海道の自然を象徴する野生動物として共存する政策へとシフトし、春グマ駆除が廃止される。

一度激減したヒグマの個体数がどのように回復していくのか、その長期的調査が春期天塩調査の目的である。

この調査は、今現在も続いていると思う。

近所の酪農家さんが差し入れてくれた初乳で作った牛乳豆腐を食べたのは、ここ天塩が初めてだった。

 

ヒグマを直接観察することを目的とした大雪山調査。

調査に入っている時に台風が来て、黒岳のテン場に張ったテント「スタードーム」が潰れそうになった。

風でテントが押され、夜中に何度もペグを打ち直したり、浸水してきたらコッヘルで水を掻き出したりして長時間凌いでいた。

その時5人ほどで調査に入っていたが、1年生の女子は私だけで、「大丈夫?」と聞かれて「大丈夫」と答えていた。

実際、私は全然平気だったし、みんなと一緒だったので何とかなると思って状況を楽しんでさえいた。

しかしながら、やはり私がいたためだと思うけれど、「石室に避難しよう」ということになり、避難小屋にいれてもらった。

テン場にたくさん並んでいたテントも皆放棄して石室に避難していたようで、「エスパース」一張りが残されているだけであった。

きっとみんな最後まで「スタードーム」に残りたいという意地もあったと思うけれど、柔軟に日和りもするのがクマ研のいいところでもある。

テント泊中、食事はコッヘルで食べるのだが、食べ終わったコッヘルはトイレットペーパー(トレペ)で拭く。

いかに少ない量のトレペで拭けるかに情熱を燃やしたりした。

わずか10cmほどのトレペできれいに拭きあげるあべちゃんはすごいな〜と本気で感心していた私である(笑)。

 

知床では、先輩のY氏が知床自然センター鳥獣保護センターに勤めて、クマ調査に奮闘していた。

その頃は知床財団はまだ設立されておらず、調査があるとクマ研にもバイトの声がかかり、私も時々参加させてもらった。

ウトロのボランティア宿舎に泊まると、自然センターの職員の方も時々飲みに顔を出してくれて、知床の圧倒的自然、ヒグマ密度の濃厚さ、調査の最前線に触れる興奮のみならず、クマ研以外の社会人の方、地元ウトロの方との交流が新鮮でもあった。

夏休みには子ども達が集う知床自然教室で、リーダーや裏方スタッフを担当させてもらったのも貴重な経験だった。

ヒグマが観光客を気にせず出没するようになったのは、ちょうどその1995年頃からであった。

その後、知床のクマ対策は怒涛ののっぴきならない状況へと突入していった。

 

冬はクマが冬眠するので、春山調査に備え、山スキーの練習をする。

札幌近郊の無意根山、春香山、手稲山など、山頂近くの山小屋に泊まり込みで出かける。

登りはスキー板の裏にシールという滑り止めを貼り、ビンディングは踵が上がるようなになっている。

滑る時はシールを剥がし、踵を固定して滑る。

ふかふかの新雪の中を滑り降りる喜び。

下手っぴで転んでばかりいたけれど、山小屋の薪ストーブの暖かさを懐かしく思う。

年に一度のスキーツアーでは、みんなが持ち寄りの一品を持ち寄って山小屋に集う。

みんな工夫を凝らしたメニューが並ぶ中、とある森さんは、インスタントラーメンを砕いて粉末スープをかけた一品を披露して顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。

でも、実は意外においしく密かに高評価だったけれど、森さんの悪人のレッテルは変わらなかった。

本当はいい人なのだがクマ研っぽくなくて器用で容量がいいばかりに、不器用なクマ研人のからやっかみもあってこんな扱いを受けていた。

でも互いに親愛なる気持ちは通い合ったので、森さんも余裕でその扱いを楽しんでいた(と思う)。

 

また冬の間、下北半島の最北のサルを調査にも助っ人で出かけた。

札幌から夜行列車のカーペット車に寝転び函館まで、そしてフェリーで大間まで。

大間町、佐井村近辺の山をカンジキを履いてサルを追う。

もちろんサルの邪魔にならないように、サルが許容してくれる距離感を保って付いてゆく。

クマの調査では痕跡は追ってもクマには遭わないように山歩きしていたので、サルのように直接観察しながら行動を共にできるのはとても楽しかった。

サルの群れがじっと同じ場所で採食している間は、小さな焚き火を熾して待った。

北海道には生えていないクロモジという木の枝は、焚き火に焼べるといい香りがした。

クロモジを見つけるとちょっと枝先を折らせてもらって、ポケットにしまって持ち歩いた。

 

今でもゴジュウカラを見かけると、初めて天塩の山を歩いた時を思い出す。

「ゴジュウカラは木の幹を下向きでも下りれるんだよ。」と6年目4年の先輩に教えてもらった。

調査に入れ込んだせいか、はたまた雑麓庵でうだうだしすぎたせいか、留年する人がクマ研には結構普通にいた。

なので、4年目3年とか、はたまた11年目6年(5年以上は大学院)など、在籍年数と学年が一致していない人、大学院で長々と研究する人もいて、大学は4年で卒業という概念から程遠かった。

大学院博士課程をとっても、運良く就職先と巡り合うまで、不安定な長い道のりだ。

先行き見えない立場でも研究を続けられるのは、ひとえに研究が好き、そして自分の信念を貫く強さを兼ね備えていなければならない。

今、研究職に就いてる人達は、先行き見えない中、光を信じてまっすぐに歩いてきて、本当にすごいと思う。

この先輩も今、とある博物館の館長さんをしている。

 

ヒンカラララ〜っと鳴くのはコマドリ。

これは鳥好きな先輩が「馬のいななきみたいでしょ。」と教えてくれた。

1円玉と同じ重さのキクイタダキ、ほっぺに黒丸のないレンガ色のニュウナイスズメ。

鳥以外にもたくさんの樹木、高山植物、山菜もみんな先輩から教わった。

特にナカムラッチには調査中、「この葉っぱ何だ?」「この冬芽は何だ?」とクイズをたくさん出された。

答えられないとちょっと怖かったけど、逸話を添えて名前を教えてもらい、クマの暮らす環境にある樹木は彼のおかげでほとんど覚えたと言っても過言ではない。

そして、私も後輩と歩くようになると、後輩に教えてあげた。

学生の頃に覚えたことは、今でも忘れていない(たぶん)。

今でも庭先で森で山で出会う生き物達の背景には、クマ研の人達と分かち合った物語りが流れている。

 

小学校の3年生くらいから生きづらさを感じていた私。

中学校は支配的な圧力を強く感じて、反発ばかりしていた。

高校は、尊敬する同級生に囲まれ、自分のことにすっかり自信を無くしていた。

そして出会ったクマ研。

私が私のままでいてもいいんだよ。

みんなの価値観と違っても、ちゃんと居場所はあるんだよ。

まだまだ私より変な人はいっぱいいるから、心配いらないよ。

普通になる必要なんてないんだよ。

とありのままを受け入れてもらった。

調査で出かけた山々で、思いっきり息を吸って、吐き出して、北海道の大自然から生命力をたくさんもらった。

ヒグマはいつも静かで大きな存在で、優しく世界を包み込んでくれていた。

 

もしあなたがそれまでいた環境が辛かったら、違った環境に飛び込めばいい。

あなたがあなたらしく生きれる環境がきっと見つかるから。

私がクマ研と出会えたように、一人一人それぞれにきっと出会える仲間がいる。

世界はあなたが思っているよりもずっとやさしい。