1人の少年が未来を閉ざされたことはとても残念ですが、1年間に自殺する学生・生徒数が622人っていうことを考えると、1日になんらかの原因で約2人の生徒が自ら命を絶っていて、理由いかんにかかわらず未来を閉ざしてしまっているということです。

いじめが原因で死のうが、病気を苦に、もしくは成績や受験が期待に沿わないなど、どんな理由であったとしても、一個の命が失われるという重さは変わらないとボクは思います。

これについては、たとえば、震災や事故で亡くなったことに比べ、自然死(病死等も含む)が軽くとらえられがちだったこともボクはちょっと疑問を感じます。

誰か大切な人が、その瞬間にその命を失うことに、どうした差が必要でしょうか?
同じでいいじゃないですか?
人は、直線的な命しか持っておらず、失ったものが返ってくるということはありません。
だとすればどんな理由においても、それは喪失以外のなにものでもないわけです。

その事件そのものは少し保留にしたうえで、ボクにはとても興味深い発言が耳に入ってきて、どうしても自分の考えをまとめたくなりました。

事実は知りません。
ボクはこの事件に関しては少し疑問を感じる点も多々あります。
なので、事件そのものについてのコメントは保留にさせてください。
わからないことをわからないままには書けません。

ただ、どうも噂話として、そのいじめた子の母親が、
「あんたの子供は死んだけど、 自分の子供は 生きていかなくちゃいけない。どうしてくれるんや!」
というようなことを言ったというのです。
このことばはとても興味深いです。
誰かが死ぬことはどうでもいいことで、それでも誰かは生きていかなければいけないということに対する不安感がこのことばの本質でしょう。
こういうことについて、日本人の精神性はずっと寄り添っていながらも、こうして声を大にする人はいませんでした。知る限りでは、「仏ほっとけぇ」でおなじみの浄土真宗ぐらいでしょうか?(主観的な解釈です)

死ぬことは、先ほども言ったように、人間の生死はとても直線的なので、生そのものは死に直線的に向かっています。だから死ぬことはしょうがないことです。いじめでも、病気でも、事故でも、震災でも、老衰でも、なんでも。死ぬことに差はありません。もちろん、誰かに殺されたとしても。

でも、ここで考えたいのは、死んだ人の数よりも、圧倒的大多数の残された人がいるということ。

そして、その圧倒的大多数の人たちは、その一個の死が衝撃的であればあるほど、強烈な影をその瞬間に残してしまう。

仮に報道やネットの情報がそのままであったとして、いじめといじめられる関係っていうのは相互依存の関係ですから、いじめっ子だけしか存在しない世界、いじめられっ子だけしか存在しない世界というのは存在しません。たとえるなら、鬼ごっこのような。ある日、鬼ごっこをしていると、鬼はいなくなってしまった。いなくなってしまった世界でも、いじめっ子はその鬼から逃げ続けなければいけない。ま、これはたとえ話です。
もし、彼が今回のことをきっかけにまったく何も反省しないとすれば、彼が今度そうした不幸を背負うことになるだろうし、もし生きていく途中で彼が反省をしたとするならば、それこそ永遠に感じられるかのような生まれてきたことそのものに対する悔恨を持つだろうと思うのです。

しかし、ここで残された人は、彼だけじゃない。
彼の親、親戚、自殺した子の親、親戚、学校の友人、先生たち、同郷の人々、卒業生、今後彼らと接触するであろう多くの人たち。
彼らはずっとこの問題を抱え込んで、それでも生きていかなければいけない。
はい、やめた。
おれ、死ぬわ。
とか、
はい、やめた。
わたし、あの時に戻って来る。
とか、そんなことはできないわけで、直線的で不可逆的な時間軸の中を等間隔に進み続けるしかないわけです。

残された人がこの長い年月の中で、この日この時を考え続けなければいけないことは、いまのところ第三者側に立つボクたちには量りえないことなのかと。

今日までの社会の動きを見ていると、ネット上では少なくても実名が出て、顔写真が出て、どこに行ったかも書かれ、親の職業、親戚の職業が明らかにされています。
何のために?
ボクにはそれがいつもよくわからないのです。
追い込んで、どうしようというのでしょうか?

モシカシテ、オレガアイツヲコロシテヤルヨ

というような社会正義のためにやっているんだとしたらちょっとそれってどうなのでしょうね。
自殺の練習をさせたいじめっ子と、なにも変わらないと思うのです。
もしくはボクにはそれ以上の狂気に思えてしまいます。

ただ、ボクは別のことも考えています。
多くの人はネット上で自分がいじめられていた体験を語りました。
もしくは、いじめに触れた過去を晒しました。
それって、実は、ネット上にいる人たちもまた「残された人」としてのやりきれなさを感じてしまっているということなのかもしれないと思っています。
いま生きているある種の罪の意識がそうした狂気となっているのではないでしょうか?
狂気はいろんな形へと変幻します。
みんなそれぞれに生きている。そして、みんなそれぞれの罪を抱えている。
それが少しだけ「善意」の方に傾くといいなぁって思うのです。

誰だってどうしたらいいかわかりません。どうしたいのかもわかりません。

本当は、そのあやふやでやわらかい部分に立ち向かうことこそが、人としての優しさや強さなのではないでしょうか?

最近、日本ではあまり人が死ななくなりました。
そのため、残されることにあまり慣れていないのかもしれません。残された喪失感に対応できないことが、対象者に対しての攻撃性につながっているんだとしたら、それはそれでとても残念なことです。

ボクはいまそんなことを思っています。