この『白子屋政談』、『梅雨小袖昔八丈』は、芝居で通し狂言でやる場合は、新三が源七に閻魔堂近くの橋で待伏せされて、有名な掛け合い科白でフィナーレを迎えますが、


落語も愛山先生の講釈も、初鰹の強請の名場面!「新三、いい節句だなぁ〜?!」と言いながら現れる、悪徳家主・長兵衛の新三との遣り取りで、物語を終わりにしてしまいます。

『深川閻魔堂橋の場』を落語や講釈ではやらない理由は、流石に2時間半から3時間は1日の公演では長い!し、1人でやると芝居口調の長い科白が2回も登場するし、負荷が半端ない。

私が生で観た中だと、雲助師匠と小里ん師匠がリレーで雲助「車力の善八」小里ん「鰹の強請」をそれぞれ落語人情噺で語り、

最後にオマケで「深川閻魔堂橋の場」の科白廻しを、雲助・小里ん両人が、茶番、芝居仕立てで"チョキ"入りで披露しました。2時間半の長い『雲助五十三次』の回でした。

尚、この『深川閻魔堂橋の場』の後に、弥田五郎源七が自訴し、お白洲、政談の場面となり、いよいよ大岡忠相、お奉行様が登場するのだが、芝居もお白洲まではやらない。オマケ、その二本の長科白が、下記の二つだ。


◇永代橋川端の場

忠七 こりゃ忠七を、から傘で。

新三 ぶった、殴ったが、おう、どうしたのだ。

忠七 こりゃもう、どうも……。

新三 何をしやがるんでえ。

ト 忠七を倒し、踏まえて、

これ、よく聞けよ。

普段は得意場《ちょうば》を廻りの髪結、いわば得意のことだから、うぬがような間抜け野郎にも、やれ忠七さんとか番頭さんとか上手を使って出入りをするも、一銭職と昔から下った稼業の世渡りに、にこ/\笑った大黒の口をすぼめたから傘も並んでさして来たからは、相合傘の五分と五分、ろくろのような首をしてお熊が待っていようと思い、雨のゆかりにしっぽりと濡れる心で帰るのを、そっちが娘に振りつけられはじきにされた悔しんぼに、柄《え》のねえところへ柄をすげて油っ紙へ火のつくようにべら/″\ごたくを抜かしやがりゃァ、こっちも男の意地ずくに覚えはねえと白張りのしらァ切ったる番傘で、うぬがかぼそいその体に、べったり印をつけてやらあ。



◆深川閻魔堂橋の場

源七 新三、待て。

新三 そういう声は。

源七 弥太五郎源七だ。

新三 なんだ、弥太五郎だ。

ト 新三ぎっくり思い入れ。

源七 今夜てめえがこの先の、池月という馬喰の賭場で遊んでいると聞き、てめえの帰りを待っていたのだ。

新三 おれの帰りを待っていたとは、てめえもこの頃都合が悪く、くすぶっているとのこと。銭でも貸してくれろというのか。

源七 なんぼ焼きが廻ってもてめえ達の袖にすがり、無心合力するような、まだもうろくはしてねえつもりだ。

新三 そんなら何でこの新三が、賭場から帰りを待っていたのだ。

源七 待っていたのはほかでもねえ、てめえにもらいてえものがある。

新三 なに、もらいてえとは、

源七 てめえの命がもらいてえ。

新三 どうしたと。

ト 双方きっとなり、

源七 まだ駈け出しの遊び人、盆の見えねえてめえだから、これまで我慢はしていたが、世間へ出ちゃァおれのことを、やれ腰抜けの意気地がねえのと、言いふらして歩くとやら。焼きの廻った源七の刃金《はがね》が斬れるか斬れねえか、命のやりとりしようから、受けられるなら受けてみろ。

新三 ちょうどところも寺町の、娑婆と冥途の別れ道。その身の罪も深川に、橋の名せえも閻魔堂。鬼と呼ばれた源七も、ここで命を捨てるのは、餓鬼より弱え商売の、地獄のかすりを取った報いだ。てめえもおれも遊び人、一つ釜とは言いながら、暗闇地獄の暗やみでも、亡者の中の二番役、業の秤にかけたれば、貫目の違う入墨新三、こんな出合もそのうちに、てっきりあろうと浄玻璃の、鏡にかけて懐に、隠し持ったるこの匕首、これせえありゃァ鬼に金棒。どれ、血まぶれ仕事にかかろうか。

源七 いかにところが寺町でも、まだ裏盆もこねえのに、聞きたくもねえ地獄のいい立て、無常を告ぐる八幡の、死出の山鐘三途の川端、あたりに見る目嗅ぐ鼻の、人の来ぬうちちっとも早く、冥途のさきがけさしてやろう。

新三 もうろく爺め、覚悟しやがれ。


との遣り取りの後、新三は源七に匕首で刺されてあの世送り。晴れて閻魔様へお目通りとなり、物語はフィナーレを迎えます。



一方、六代目圓生の考案で、物語、落語の人情噺、講釈の世話物の〆として、この川柳を詠んで終わりにするのが定着している。


オオカミの 人に喰わるる 寒さかな


オオカミが新三で、それを喰う人間様が長兵衛だと言う比喩なのだが、新三も強欲で無鉄砲にお熊を拉致監禁し、侠客・弥田五郎源七に逆らって悪態を突くが…。

腹黒い老獪な家主に掛かると、駆け引きが巧妙過ぎて、新三ごとき小悪党の狼じゃぁ、簡単に言い包められて啖呵も通用しない。誠に狼の遠吠えである。

六代目圓生が"百席"に込めた想い。芝居では表現できない落語の人情噺ならではの機微がこの川柳「オオカミの 人に喰わるる 寒さかな」に込められている。