四年前にこのBlogでは、明治二十九年の松林伯圓がまだ、燕林と呼ばれていた時代の速記本で紹介した『新吉原百人斬り』。
これを宝井梅湯さんが読み始めると知り、どのような筋立てゞ演じるのか?大変興味を持ちましたので、4/1の第一回から聴く事に。
1.難波戦記「真田の入城」… 蓮陽
神田すみれ先生の弟子の蓮陽さん。昨年11月に入門して2月に楽屋入りし前座と成りました。
講談協会は三ヶ月の見習い期間を経て前座に上げていますが、既に、前座が十六人も居るから、
もしかすると、落語協会の様に見習い期間が最低一年とかに、遅らせるような事も考えられますよね。
講談協会は、貞水会長時代から比べるとかなり変わったと感じられます。貞水先生は良くも悪くも変化を好みませんでした。
そして、会長が琴梅先生、琴調先生へと変わる度に、新しい脱コンサバティブな講談協会に進化し続けていて、
兎に角、入門して来る新人のレベルが非常に高いと思います。田辺いちかチャン、神田伊織くん辺りから、
その傾向では有りましたが、松鯉先生の講談教室で鍛えられた新人が、日本講談協会に入れず、講談協会へと流れでいますよね。
そんな毛色のスーパー前座が居る中、今回見た神田蓮陽さんは、普通と謂うのか「ゆとり世代の前座」と謂う感じでした。
梅湯さん曰く、「蓮陽さんから、墨亭さん初めてなので入り時間が判らないのですが?!と、尋ねられたから、梅湯さんが、
10時半開演だから、10時には来て於いて貰わないと困るよ!と、返したら、キッチリ10時に楽屋入りする蓮陽さん。
言われた通りなんで、真面目ッちゃ真面目なんだけど、芸人なんだから!師匠や先輩から10時と言われたら最低30分前が基本。
そんな暗黙のルールに入門五ヶ月目になっても知らない蓮陽さんを見ると、16人前座恐るべしと感じる私でした。
さて、そんな蓮陽さん。語り口調は講釈のリズムなんだけど、ブレス・呼吸するタイミングがバラバラで、澱みなく語れていない。
講談教室あがりのスーパー前座と比べると可哀想ですが、二年くらい掛けて一人前に育つ感じかな?と、思いました。
そんな講談協会の16人前座は、何人生き残るのか?これも楽しみな興味の一つで御座います。
2.新吉原百人斬り「お信殺し」… 梅湯
梅湯さんの『新吉原百人斬り』。先に明治二十九年の速記本で読んだ伯圓がまだ燕林だった時代の噺と、比較しながら感想を述べたいと思います。
先ず、大方の予想通りで妖刀『籠鶴瓶』を主人公が手に入れる経緯は語られずに、伯圓(燕林)の速記本だと六、七、八話から梅湯さんは始める。
第六話 https://ameblo.jp/mars9241/entry-12562834840.html
第七話 https://ameblo.jp/mars9241/entry-12562913809.html
第八話 https://ameblo.jp/mars9241/entry-12562985787.html
これは至極当然で、芝居にも成っていて、『籠釣瓶花街酔醒』/かごつるべ さとのえいざめ、と言う題名で、
黙阿弥の門人の三代目河竹新七と言う狂言作家の作品・全八幕二十場ある超大作ですら伯圓の語る発端は含まれません。
だから、梅湯さんがやらないのは頷けると思いました。全五話の発端は都筑武助高茂と謂う人物に籠鶴瓶が渡った経緯と、
主人公の次郎左衛門が出逢う経緯が語られますが、そこから次郎左衛門の父の次郎吉の噺へと急に遡り第六話へと移ります。
だったら、次郎左衛門が妖刀を手に入れるくだりは後へ回して、次郎左衛門の父、次郎吉の噺から入る方が自然に感じます。
実際、伯圓の速記本だと次郎吉の末路がこの第五話の段階で朧気に語られますが、後半に詳しく語られないと理解するのは難しい。
一方、梅湯さんの方も伯圓同様、主人公・次郎左衛門の父、次郎吉は医師・小松原有益と謂う人物の長男で、博打狂いの放蕩者として描かれて、
放蕩が過ぎて勘当となり〃焼金の鐡蔵〃と謂う十手持ちの親分に引き取られて、その家に居候する内に…、鐡蔵の娘と恋仲に成ります。
ここまでは梅湯版も伯圓版も変わらないのですが、娘の名前が異なります。梅湯版の方は『お信』で、伯圓版の方は『お菊』です。
まぁ名前の違いなどは瑣末な差異ですか、ここで梅湯さんと伯圓の大きな差異は梅湯版は鐡蔵は単なる岡っ引きとして描かれますが、
伯圓版では蕎麦屋と岡っ引きの二足の草鞋なんです。だから、居候の次郎吉が鐡蔵に娘・お菊(お信)との仲が知れて、蕎麦打職人にされる下りが御座います。
梅湯版の方はこの下りが無いので、江戸の長寿庵へ蕎麦の修行に行け!と、鐡蔵に命じられる場面に違和感を少し感じてしまいます。
また、長寿庵を次郎吉とお信の夫婦が、元の持ち主・浅吉から譲り受ける展開は梅湯さんも伯圓も同じだし、商いが軌道に乗り、
ゆとりが出来ると、次郎吉の持ったが病で博打を始めて身を崩す展開も一緒なら、大金を盗んだ亀山藩の若侍が長寿庵へ逃げ込み、
この若侍を追手から匿い、甲州街道を西へと逃す展開まで全く同じなんだけど、若侍を次郎吉が殺す場面が少しだけ異なります。
松林伯圓の方は、次郎吉が若侍の跡を付けて寂しい雑木林の近所にて、匕首を使って殺害し、死骸を無造作に隠して逃げます。
併し、運が良く衣服は乞食が奪い、また刀は無宿渡世の侠客が質に入れ、更に死骸は野犬に食い散らかされて奉行が発見した際には手掛かりが無かった。
一方梅湯さんの方は、甲州街道までの道順を教えて尾行。真夜中に通る橋が普請が悪く穴だらけ。依って、この橋で若侍が穴に足を取られた隙を襲う次郎吉。
しかも、襲う時の道具が〃蕎麦切り包丁〃。中々、残忍に背後から肩を斬り付け、倒れた若侍に馬乗りとなり首を斬り落とす。
その死骸は、先ず首から川に捨てゝ、懐中の金子を奪い身包み剥いだ後で、胴体も川に捨てるという残忍な周到さを見せます。
更にこの後の女房、お菊(お信)の最期が決定的に両者は異なり、梅湯さんの方が寄り陰惨で、且つ、次郎吉の悪党ぶりが際立ちます。
伯圓の方はお菊は妊娠後九ヶ月でやや子を流産し、その影響で病死すると謂う筋書ですが、梅湯版では若侍同様、次郎吉がお信を殺害致します。
実は伯圓も梅湯さんも、女房が十手持ちの娘だから、鋭い推理で若侍を旦那である次郎吉が殺して、若侍が殿様の手文庫から奪った金子を盗んだと確信する。
因みに、金子の高は梅湯さんが二百両に対して、伯圓の方はなんと!1.5倍の三百両で御座います。
そして、この梅湯さんの〃お信殺し〃が、噺を暗くさせて陰惨で、自身で推理し夫が若侍殺しに違いないと確信したお信は気鬱になり、若侍の亡霊に悩まされてしまいます。
すると、亡霊の妄想からあらぬ事を口走り出し、「若侍を殺したのは次郎吉さん!御免なさい。」と、大声で公に口走る事も御座います。
さぁ、もうこうなると次郎吉は放って置く訳には参りません。悪霊を西新井の大師様で厄除しようと謂って連れ出して、
帰り道、裏道に誘い込んで裏田圃にて、お信の首を絞めて殺害します。『村井長庵』などでもお馴染み、講釈の常套手段、雨夜、闇夜の裏田圃で締め殺す。
実に噺は陰惨な方に向かい、後味の悪い展開になるので御座います。そして、次回は、あの江戸節お紺と次郎吉が出逢う場面になるので御座います。
3.三方原軍記「信玄鉄砲」… 梅湯
凄く長い『三方原軍記』の最後の一節が、この「信玄鉄砲」で御座いまして、元々は、鉄砲の名手であった鳥居三左衞門の武勇伝が、講釈では楽人、笛の名手・村松久左衛門芳休と謂う人の噺に変わります。
元亀三年、三方ヶ原の戦いで徳川家康を浜松城に追いやった武田信玄。翌年には三河国、野田城に攻めかかる。野田城では大将である菅沼信八郎定盈(すがぬましんぱちろうさだみつ)らが城を固めているが、いよいよ信玄が間近に迫ってくると、浜松城に早馬を飛ばして家康に救いを求める。援兵を送りたい家康だが、昨年信玄に大敗北を期したばかりであり、しかも領内は飢饉で兵糧の調達もままならない。援軍も兵糧もないまま、野田城では正月四日から戦いが始まり、わずか五百人でもって三万有余の武田軍を相手にすることになる。
如月十四日の夕方、もうどうにもならないと菅沼信八郎は城中の主な者たちを集めて話し合い、武田の軍門に下らずに、悉く討ち死にすることが決まる。もう城中を兵で固めていおく必要はない。敵が攻めて来たらそこで討ち死にすれば良い。足軽二人ずつを見廻りに当て、大広間では大酒盛りが始まる。
野田城の城中に横笛の名手で楽人の村松久左衛門芳休という者がいる。徳川の家来であるが、菅沼とも親しくしており、彼の元を訪れていたところこの城で身動きが出来なくなってしまったのだ。菅沼は宵のうちに搦め手から城を出て岡崎へ帰るよう勧めるが、久左衛門は武田相手に明日、斬り死にする覚悟であるという。酒宴で久左衛門は衣服を改め身を清めて櫓に登り、夜が深々とするなか、この世の名残ばかりと心を込め笛を吹く。
この時、信玄は本陣から野田城へ物見を送ると、酒宴が開かれ歌いつ舞いつの大騒ぎであるとの連絡が入る。また櫓の上からは、この上もない清らかな笛の音が聞こえると言う。忌の際に笛の音を聴いて楽しむとはどういうことであろう。何者がいるのであろうかと不思議に思う信玄。信玄自ら物見にいくことにし、本陣を出て野田城に近づく。笛の音は天人の舞かと思うばかりにいとも清らかに響き渡っている。世にはこのような名人がいるものか。信玄は馬を降り、松の大樹の元、床机に腰掛ける。
さて、城中では軽部太郎兵衛、鳥居才五、二人の足軽が鉄砲を持って見回りに出ている。塀の上から見てみると、闇の中で松の木の下、法師武者のような者が床机に座っている。城の様子を伺いに来たに違いない。脅かしてやろうと、種子島で狙い定めてパァーンと撃つと、軽部の弾が当たった。あれは信玄かもしれない。翌日の斬り死には取り辞めになり、籠城となった。後に弾の当たった相手は信玄であったと聞いて軽部太郎兵衛は大いに驚く。この時使った鉄砲は『信玄銃』と呼ばれ、菅沼家代々の家宝になったという。