瓢箪から駒とは、よく言ったもので、次郎吉とお菊の若夫婦、長寿庵と言う蕎麦屋を手に入れて、それは張り切って働きます。
近所の長屋連中がビックリする程早く起きて、買い出しに出かけます。行商のボテ振りから安く野菜や小魚を仕入れて、蕎麦の天ぷらの具に致します。それが長寿庵の名物に。
・かけ
・花巻
・しっぽく
・月見/とじ
・山菜
・天ぷら
・せいろ
・笊
・天せいろ
そして、香物と蕎麦味噌などが御座います。
四ツ過ぎに店を開けて、夜は六ツか五ツには蕎麦が無くなり、店を閉めます。大変に繁盛して、銭も貯まり始めます。すると、貯まった銭を見るのが楽しくなります。だから更に銭が貯まる。
ところがお菊の余計な欲が、この店の歯車を狂わせてしまいます。
お菊「あんた!次郎さん、蕎麦の打ち手を雇いましょうよ。今はあんたと私の二人だろう?殆どあんたの打つ、朝と八ツから七ツくらい迄の店の暇な時間に打つ分だけだろう?
だから、お客さんは来るのに、六ツで店閉めるのは勿体ないよ。職人を入れて、蕎麦打ちさせたら、四ツまで営業出来るじゃないかぁさぁ。」
次郎吉「そんなに儲けてどうする?人間、商売は身の丈だぞぉ。まぁ、お前がやりたいってんなら、雇えばいいさぁ。俺はお前に従うよ、お菊!!」
此れで職人が来たもんで、次郎吉が蕎麦を打たなくても、店は廻る事に成ります。そこに、お菊は気付いていませんでした。
元来真面目で勤勉な、硬い男では無いのです、次郎吉。博打と酒と女が大好きで、それで、親から勘当されているんです。そんな奴を銭持たせて、江戸で野放しにしたらどうなるか?!
また、鉄砲弾に戻りました。
店の銭を持っては、博打場へ行きます。取り敢えず、職人が蕎麦は打ちますが、次郎吉の蕎麦に惚れてた、味に煩い客がまず離れて行きます。
長寿庵、最近蕎麦が駄目だ!!
売り上げが落ちて来たのに、次郎吉は働かず店の金を持って行きます。あんなに仲良しの新婚夫婦が、顔を合わせると喧嘩!喧嘩!喧嘩!
遂に、職人には給料が払えなくなり、辞めてしまう。お菊が蕎麦打ちして、一人で店をやる様になると、四ツから四ツまで営業して、蕎麦が十杯も売れない!!二人に子供でもあれば、違ったのかもしれませんが。。。
長寿庵、遂につばなれしない店となる
流石に、店の金が無くなり、次郎吉が気付ます。そろそろやばい!!と。極道の野生の勘?女房の堪忍袋の緒が切れそうだと、分かるんですねぇ。
次郎吉「お菊!すまなかったなぁ。ちょっと、悪い病気が出て、また、明日からは心を入れ替えて、蕎麦打ちに専念します。」
お菊「あんた!次郎さん、それは本当かい?あたしゃぁ、お前さんが博打狂いで、店の金が無くなると借金すると思ったからさぁ、犬伏の父親(おとっぁん)に、江戸に来てお前さんに意見して下さいって、手紙を書いたんだよ。
もし、お前さんが、長寿庵を見捨てて、博打を止めないようなら、この手紙を飛脚に頼むつもりだったけど。。。本当に明日から働いてくれるんだねぇ?」
次郎吉「勿論だ、六ツ前には起きて、一人で市場に買い出しに行って、美味い天ぷらこさえてまた客を取り戻すぞ!!
明日から朝仕入に行くから、今日は死ぬほど呑ませろ!!何て間違った料簡じゃないんだ、俺様は。いいか?ここが、俺の魚勝との違いだ。分かったか?分かったら、そんな物騒な手紙は早く火鉢で燃してしまいなさい。
焼金の親分に説教しに来られたら、本当にまずい!!明日からちゃんと心を入れ替えるから、お菊!宜しく頼みます。」
翌朝、約束通り早起きした次郎吉は、ボテ振りの行商人が市を成して活気のある小石川の広小路へと買い出しに行った。
八百屋「あらぁ?!次郎さんじゃない、生きてたかい?女将さん、泣いてたぞ。」
次郎吉「八百熊!!減らず口はいいから葱をくれぇ。岩槻が四ワとアサツキが五ワだ。高けぇよ!久しぶりなんだ、全部で三十文にしろ!また、明日買ってやるから。」
魚屋「次郎さん!お帰り。ハゼとゴチ、其れと芝海老もあるよ。」
次郎吉「ハゼは、そうだなぁ、そこのを有るだけ貰うよ。ゴチはダメだ!デカ過ぎるよ。芝海老はまた今度。上客が戻らないと芝海老なんて出せねぇーよぉ。
で、全部で幾ら?端数は負けろよ。馬鹿、六文じゃねーよ、四十六文負けて二百にしろって言ってるのぉ、分かったよケチ。二百二十文だなぁ、ほら持ってけ泥棒!!」
久しぶりに朝の仕入れを済ませて、何となく商売のやる気が出て来たのを感じる次郎吉が、店に戻ります。
次郎吉「お菊!!只今、帰りました。天ぷらは、たらの芽と椎茸、それにハゼが有った。薬味の葱がこれ。全部で、四百五十文。まずまずかな?」
お菊「具材と薬味は私がやるから、取り敢えず、次郎さん!蕎麦を打って下さい。」
次郎吉「了解しました!ご主人様、此れより蕎麦を打たせて貰いますぅーー!」
一心不乱に蕎麦を打つ次郎吉。何かいい汗出ているなぁ?!と、感じます。それを脇で見ながらハゼの腸(ハラワタ)を抜いているお菊が、この人の『善玉料簡』が、長く長く続きます様にと祈っておりました。
四ツから開けた昼だけで、朝打った蕎麦は粗方ハケて、天ぷらも殆ど売り切れました。夜の蕎麦を八ツから打って次郎吉は、久しぶり働いたせいか?ややお疲れ気味。
それでも、まだ初日だと、気を引き締めて、七ツから六ツになる黄昏時、『江戸前蕎麦 長寿庵』の行燈の看板を、表に出そうとしたら、当たって来る奴が居る。蝋燭が折れる!ポキッ
何ぃしゃがんだぁ!!ベラ棒めぇ〜
と、次郎吉が叫ぶと立ち止まったのは、十七、八の若い侍です。見るからに大名・旗本の奥小姓と言う風態で、髷も流行りの茶筅髷。
若侍「誠に粗相をして相すまん。勘弁して貰いたい。付いてはなぁ、拙者、少々災難を被ってなぁ。後から追って参る侍が数人ある。ご亭主、拙者を暫時、匿ってはくれまいか?」
次郎吉、働き出した初日にどーも、面倒を背負い込んだ!!とは思いましたが、若侍の懇願する様な目を見て、次郎吉もスネに傷のある身ですから。
次郎吉「さようですかぁ、頼む!と言われたら、満更、嫌ですとは言えないたちでねぇ、よーガス。こっちへおいでなさい。」
と、若侍を物置ん中へ隠そうとするが、中に踏み込まれたら、簡単に見つかる。そこで。
次郎吉「おーい!お菊、葦簀を持って来い!そうだ、全部。」
お菊「葦簀って、今日、お前さんが、天ぷらにするハゼを干してた奴じゃないかぁ。生臭いよ。」
次郎吉「だからいいんだ。早く持って来い。よし、全部でぇ、一、二、三。。。五枚かぁ。お侍さん、そこ、奥に隠れて下さい。少し臭いますが、我慢して下さい。」
そう言って物置の奥に若侍を詰めて隠れさせて、その前に、魚臭い葦簀を、五枚並べて置いておく。物置の戸はあえて開放にしておくのも、次郎吉らしい知恵である。
次郎吉「おい、お菊。この後、今物置に隠したお侍さんを追って、侍がやって来る。いいかぁ?お前は何んにも喋るな。何か聞かれてもだぞ。全部、俺が仕切るから、口を貝にしなさい。」
お菊「。。。」
次郎吉「早い!まだ、貝にならなくていい。」
そんな夫婦のやり取りの後、タスキ掛けで追っ取り刀の侍が四人、バラバラっと入って参ります。すると、お菊が条件反射で貝には成りません。
お菊「へぇ!らっしゃい!!何にしましょう?」
次郎吉「今日はいいハゼがありますよ、四名様、ハゼの天ぷら蕎麦は如何ですか?もう残り五人前で売り切れます。早いモン勝ち!!どうです旦那?!天ぷら蕎麦。天せいろでも!!」
侍A「すまん、我らは蕎麦を食いに参った客ではない。人を探しておる。この辺りで若い小姓風の侍を見掛けなんだか?」
次郎吉「アッ!それならアッシが、店の看板に火を入れようとしていたら、ぶつかって来た侍かな?藍染め着物に、茶筅髷の若侍ですか?」
侍B「其奴じゃ!!何処へ行った。」
次郎吉「仕切に謝りながら、広尾の方へ駆けて行きましたよ。」
侍B「誠か?偽りを申すと、為に成らんぞ、町人!!」
次郎吉「アッシが、なぜ、嘘を付くんですかぁ?!」
侍A「袴田!須貝!お前達は、広尾へ行け。それから、ご亭主。すまんが、念のため家捜しさせて貰うぞ。」
次郎吉「飛んだ災難だなぁ、こりゃぁ。看板にはぶつかって蝋燭を折られるし、後から来たお侍様には、家捜しされるし。。。私が案内しますよ、何処へから見ますか?」
侍A「では、そこの台所からお願い致す。」
次郎吉「ハイハイ、家捜し手伝いますから、その代わりに、次に巣鴨で、長寿庵の、この行燈を見たら蕎麦の一杯も食べて行って下さいね。」
そんな愚痴を言いながら、次郎吉が手際良く、店の一階と二階を案内して、夫婦が住んでいる二階奥まで全て確認させた。
そして、再度、一階に降りて来た時に、二人残った家捜し組の片方の侍が、物置があるのに気付いた。
侍B「ご亭主、あれは?物置で御座るかな?」
次郎吉「そうです。物置です。でも、今、魚を干した葦簀を仕舞ったばかりだから、臭いよ。其れでも良ければ、覗いて下さい。」
侍B「勿論!案内して貰おう。」
五枚重ねの葦簀を、まず、次郎吉が一枚剥がす。強烈な魚の腐った臭いが鼻を付く!更に二枚目を剥がすと臭いが倍増どころか、三倍、四倍にも感じられた。其処へ三枚目の葦簀を、次郎吉がめくり掛けた、その時!!
侍A「御同役、もう良いのでは?この臭いの中、少なくとも侍が隠れて居るはずがなかろう?」
侍B「そうですなぁ、すまんかったご亭主。物置は此れで良い。閉めて下さい。臭いがかなわん。」
侍二人は店に戻り、お菊が出す茶を飲んでいた。
次郎吉「ところで、お二人は何方の家中で?」
侍A「我らは出羽國、亀田藩二万石、岩城左京亮様の家臣で御座る。ご亭主、奥方、長々とご無礼仕った。」
次郎吉「そのお探しの若侍は、何をしたですか?殿様がお気に入りの奥女中に夜這いを掛けたとか?」
侍B「エッホン!さようなぁ、不埒な淫行ではない!!」
侍A「実は、かの若侍は、山田三四郎と申す小姓で、殿の身の回り世話しているのだが、最近、殿の御手元金が度々紛失を致してなぁ。
その賊の正体がとんと分からず、探索方の役人もほとほと困り果てていたら、この度なぁ、殿の手文庫から三百両もの金子が無くなり、
漸く山田三四郎の仕業と突き止めたのだが、取り押さえる寸前に蓄電されて、追跡しておると言う訳なのだ。」
侍B「それにしても、可哀そうなのは、兄の山田三右衛門だ。家中切っての堅物で、勤めにも武芸にも、そして学問にも秀でて、余りの堅さに石部金吉と渾名される程なのに、
既に舎弟三四郎の不行跡の責めを負って謹慎申し付けられておる。同役として、本当に可哀そうでならん!!」
次郎吉「どうですか?お茶のお代わりは?」
侍A「もう結構。ご亭主、ご内儀、お世話になり申した。後日、また、礼に参ります。」
二人の侍が立ち去った後、次郎吉は、物置から若侍を出して店に引き入れます。そして、出したばかりの看板を店に戻して、早仕舞いにします。
若侍「全くの通りすがりに無礼を働いた私に、こんなに親切にして頂き、お礼の言葉もありません。」
次郎吉「若い時は、色々と間違えてしまう事も御座います。アッシみたいなもんが偉そうな事に聞こえるかもしれませんが、
今帰ったお侍の仰る事には、お前様の兄さんに、大変な不幸を背負い込んだとか、何かいい塩梅にお兄様を救う様な工夫はありませんか?」
三四郎「本当に僅かな迷いだったのです。ある婦人に入れ上げて、兄にもご先祖様にも、申し訳ない事をしてしまいました。
さてご主人、ここに二十両の金子があります。今日のお礼に此れを受け取って下さい。そして私の事は忘れて下さい。」
次郎吉「旦那!見損なって貰ちゃぁー困る。俺ッチは銭が欲しくてあんた匿ったんじゃねぇぜ。
お前さんから二十両やるから匿ってくれと頼まれてもいないし、俺の方から匿ってやるから、銭をくれと持ち掛けてもいねぇー。
つまり、阿吽なんだ!!
分かるかい若けぇーの。漢が漢に意地を見せたんだ。銭金の話じゃねーんだよ、分かったら引っ込めてくれぇ!!
銭をビタ一文でも受け取ると意地じゃなくなる。そりゃただの欲得だ!!そーはしたくねぇーんだ。それに、本当なら三日四日、お前さんを匿ってやりてぇーさぁ。
でも、あの様子じゃそれは無理だ。広尾に居ねぇーと分かると、更に追手は増える。逃げるんなら早い方がいい。早く出て二里でも三里でも遠くに逃げなさい。」
三四郎「この二十両を、ご主人に受け取ってもらわねば、拙者が心苦しい。」
次郎吉「何度も言わせないで下さい。そいつを貰うとオイラが漢じゃなくなりますから。
やい!お菊、こちらのお侍さんに蕎麦を、そうだなぁ、ハゼの天ぷら二本付けて、天ぷら蕎麦をお出ししろ。
旦那、うちの蕎麦で少し精を付けて、遠くに逃げておくなさい。お菊!早くしろよ、出汁をあんまり熱くすんなぁ。葱多目でなぁ。」
山田三四郎は、一杯の天ぷら蕎麦をおどおどしながらも、夢中で食べた。そして時々、涙か汗か分からない雫が丼へ垂れた。
三四郎「ご内儀、馳走になりました。此れをご内儀が蕎麦の代として受け取って貰えぬか?」
お菊「うちの人が受け取れない金子を、私が受け取れる訳ないでしょう!?そんなんだから、婦人に迷うんですよ。
それに、うちの人は、一度言い出したら、聞きませんから、諦めて下さい。」
次郎吉「旦那、何方へ行くおつもりですか?」
三四郎「的(あて)はござらんが中山道へ」
次郎吉「其れだと、西ヶ原から王子へ抜けて、裏道を通って抜けた方がいいですよね。行き方分かりますか?」
三四郎「いやぁ、ちと。」
次郎吉「分かりました、こうなったら乗り掛かった船だ!!俺が四丁か五丁先まで送りますよ。」
三四郎「何から何まで、かたじけない。どうか二十両受け取ってくれぬか?」
次郎吉「旦那、何か俺がすると金子を出したがりますよね。それは、迷った婦人に仕込まれたんですか?だったら、今日止めましょう。
俺がねぇ、なぜあんたに親切にするか?さっきはかっこ良く阿吽とか言ったけど、俺が若気の至りの先輩だからなのかもしれない。
だから、旦那が若い頃の自分みたいで。。。つい、親切にしちまうんですよ。サッ!追手が来るから、早く行きましょう。」
五ツの鐘を聞きながら、二人は闇へと消えて行った。
つづく