第１３９２回　死者の声（１）

　人間は死が近づいてきて、体の機能が正常に働かなってきたときに、話のつじつまが合わなくなってきたり、急に怒りっぽくなることがあります。何かの感染症や脱水症状、また貧血や薬物などによって、急激に起こる意識障害で、終末期がん患者の３０％～４０％、看取りの時期の患者さんの９０％＝ほとんどの患者さんが経験する症状です。この症状を「終末期せん妄」と言います。この症状は肉体への負担が原因となった脳の機能の乱れですから、その原因を治療によって取り除いたり、安心できる環境を整えることで改善されます。

　「終末期せん妄」とは別に、「終末期明晰」と言われる症状があります。たとえば事故など何かの原因によって、知的能力を永久に失ったと思われていた患者や、認知症で正しく状況を伝えることが出来なかった人が、突然、記憶力や思考力が回復して、普通に話し始めることがあるのです。認知科学者の「アレクサンダー・バティーアーニ」は、自分の兄弟「モニカ」が悪性の脳腫瘍で死にかけていました。病気の進行は早く、死を前にした数週間はほとんど意識がありませんでした。医師からは病状は悪化して末期に入ったことを告げられたため、妻と二人で毎日モニカの見舞いへ通っていました。そのころのモニカは、病院へ行っても一日中、眠っているだけでした。

　ある日、二人で切り花を持って病室へ入ると、モニカは突然ベッドから起き上がりました。そしてベッドの足元をしばらく見つめると、「リズ！」と大声で叫びました。リズは４年前に乳がんで亡くなったモニカの親友の名前です。その後のモニカは、とても穏やか表情になって、明らかに安らいでいました。このことがあった数時間後、その日の夜にモニカは静かに息を引き取りました。このことについて、アレクサンダーは、どう考えてよいのか今でも答えが出ていません。リズがモニカの最後の旅立ちを助けてくれたようでもあり、モニカの単なる幻覚だったのかもしれません。ただ、一つ言えるのは、病気になってから大きな不安や恐怖、そして痛みにさいなまれていたモニカが、最後の時を安らかに迎えられたことがありがたかったと述べています。

　また、アレクサンダーは、認知症で亡くなった自分の父親の最期についても話しています。父親の認知症は初めはゆっくりと進行していましたが、最後の１年は急速に悪化していました。そのため２～３日おきに父親へ顔を見せに行っていました。ある日の午後、見舞いに行くと眠っていた父親は突然目を開けて、アレクサンダーへ微笑みながら話しかけます。突然、「ハロー」と言って、「調子はどうか？」と尋ねてきたのです。目はしっかりと見開いていて言葉もハッキリしています。そして幸せそうにニコニコ笑いながら、「母さんが来ているんだ、母さんやみんな、君のことが大好きだよ！」と、幸せそうに告げたのです。母親は２年前に他界していました。そのためアレクサンダーが上手く返事ができないでいると、父親は「大丈夫、愛しているよ」しっかりとした口調でそう言いました。それからしばらく沈黙が続き、やがて意識を失った父親は静かに亡くなったのです。

　アレクサンダーやその研究チームの分析によると、これは終末期患者が時おり起こす、支離滅裂な幻覚やせん妄とはまったく異なるものだといいます。これらの事例の患者たちは明らかに言語能力が回復していて、他人についての記憶も戻っているのです。そして「終末期明晰」の患者は、病室にいる患者には感知できない経験をしたり、見たり聞いたりしていました。いわゆる”お迎え現象（終末期の患者などが、自らの死に臨み、すでに亡くなった家族やペット、知人やお花畑、三途の川など通常では体験できない事物を感知する経験）も含まれます。そして患者たちは、自分の人生が間もなく終わることを自覚していて、この機会を利用して周囲の人に別れを告げたり、彼らと言葉によるコミュニケーションをとっていたのです。（２）へ続く。

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