相談者は日記のようなみずきの文書を読んでいくうちに、いつしか心の中に「みずき」という女性の虚像を作り上げていた。彼女の容姿はとても美しく、気持ちは素直でチャーミングだ。それでいて人気のある大手企業の第一線でバリバリと働いく優秀さを持ち合わせている。上司がみずきにパワハラを繰り返しているのは、みずきを大好きでいながら自分を振り向いてくれないことでその仕返しをしているのだろう。山上はきっとみずきを何度も口説いたはずだ。しかし、裕也と付き合っているみずきは、山上を相手にしなかった。そのためプライドを傷つけられた山上はハラスメントをすることで自分の憂さ晴らしをしているのだ。”山上は最低の男だ”相談者はいつしか自分の心の中に、会ったことも話したこともない、みずきと山上の人間像を勝手に作り上げていた。愛すべき対象のみずき。そして憎むべき対象の山上。そしてその思いは、「パンドラの壺」の最後のページに入ったときに、自分を突き動かす強固な意志に変わっていた。
「私はもう疲れた。本当に疲れ果てた。山上殺して私も死んでやろうか。会社では今日も一日中、山上のハラスメントに遭って、自分を否定され続け、針のむしろに座らせられている。しかも周りに私の味方をしてくれる人はいない。私に同情する気持ちはあっても、下手に私の味方をして山上に睨まれたくはないと誰もが思っている。山上は今日も同僚に聞こえないような小さな声で私に吐き捨てた。“もう、会社辞めろよ。ここにいてもお前の将来はないし、お前だって面白くないだろ。オレもお前の顔見てるだけで不愉快だから、早く消えてくれないかな”およそ上司が部下に言う言葉ではない。でも最近は山上の嫌がらせもどんどんエスカレートしてきて、直接、ハラスメントになる言葉をぶつけてくることも多くなった。もちろん私がこのことをコンプライアンスへ相談すれば、“私がそんな発言をするわけがない。最近、精神的におかしいのですよ”と、自分の発言は認めずに逆に私を攻撃してくるだろう」
相談者はこの文書を書いているときのみずきの気持ちを思うと、山上への怒りが自然と沸き上がってきた。さらに保存文書には切ない言葉が並んでいた。
「今日も裕也には会えなかった。最後に二人で会ったのはいつだろう。もう1か月は会ってない気がする。電話をしてもメールをしても返事が来るのは4回に1回。もうすぐ私の誕生日、その日の予定を裕也に尋ねたけど返事は来なかった。去年は新木場の東京ヘリポートから東京の夜景を見て、シャングリ・ラホテル泊ってすごく幸せだった。今年は一人の誕生日か。寂しいなあ… 私、何のために生きているんだろう。毎日、嫌がらせされながら仕事にしがみついて、誰からも愛されずに誰からも認めてもらえなくて… それでも毎日、肘が痛くなるまでパソコンのキーボードを弾いて、罵られて… もう全部終わってしまえばいいのに」
相談者はこの文書を読みながら自分の心が震えるのが分かった。胸の中は会ったこともないみずきへの愛おしさと山上への怒りで張り裂けそうだった。そしてさらにページをめくると真っ黒の背景の中に蓋の閉まった壺の画像が出てきた。そしてその画像の横に「オープン」「クローズ」と書かれたボタンが表示されていた。相談者は迷うことなく「オープン」のボタンをクリックした。すると、壺の蓋は開き、
「今まで読んでくれてありがとう。あなただけが私の本当の理解者です。できればあなたと生きてお会いしたかった。あなたがこのページを読んでいるとき、私はもうこの世にはいません。もし、あなたが私の気持ちを一片でも汲み取ってくれるなら、どうかあなたの力を貸してください。行動で示してください。私は見ています。肉体は無くなっても思いは残ります。そして私の魂も。いつもあなたを見ています。(みずき)」
そしてさらにページをめくると次のようなデータが並んでいた。
「山上の会社の直通電話番号・会社のメールアドレス・家の住所・電話番号、山上の実家の両親の家の住所・電話番号・実家の父親の勤め先会社名・所属部署名・会社の住所・電話番号・メールアドレス・山上の二人の子供の氏名、通学している学校名・学校の住所・電話番号・メールアドレス、子供のクラス名・担任の氏名・担任の家の住所・電話番号・担任のスマホの電話番号・メールアドレス、山上の妻の実家の住所・電話番号・妻の父親の勤め先会社名・住所・電話番号・メールアドレス・所属部署名・妻の父親・母親のスマホの電話番号・メールアドレス」
これらの情報が「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」と画面いっぱいに点滅する白い筆文字の上に列記されていたのです。(7)へ続く。