先日、霊能者になるためのセミナーに参加して高額の授業料を支払った方から相談を受けました。その方によるとお寺に隣接された研修センターのような施設に10日間泊まり込んで、座学や修行と称したトレーニングを行います。そして10日で霊的な感覚を磨き上げて、霊能者を生業とできるところまで指導してくれるというのです。その費用は安い新車なら十分に買えるぐらいの金額です。私からするとこのセミナー自体が眉唾に思えてなりません。それは不当な料金に加えて、霊的な感覚は座学やトレーニングで培われるものではないからです。私はこの方に尋ねました。
「それであなたはこの10日間のセミナーを受講して、何か自分の感覚が変化してきたと実感できたのですか?」
その方は苦笑いを浮かべながら答えました。
「いや。まったく。終わった直後は、日常生活を離れて自分を見直す良いきっかけになったとは思いました。しかし、霊感や直感が鋭くなったような自覚は何もありません」
おそらくそうだと思います。私のように生まれた時から霊的な感覚を持っている人間(=霊的な間口が開いている人間)は、いまさら開く必要はありませんから、こういったセミナーは全く必要ありません。また、後天的な努力によって霊的に開いた状態を目指すにしても、それは容易にできることではないのです。
たとえば交通事故に遭ったとか、手術中に短時間でも心臓が止まってしまったことのあるという人がいます。いわゆる臨死体験です。臨死体験をしているときに、「お花畑を見た」とか、「三途の川を見た」という方が時々います。そしてこの体験の後から、今まで見えなかったものが見えるようになったとか、今まで聞こえなかった音が聞こえるようになったと言う人もいます。中には幽霊が見えるようになったとか、幽霊と会話できるようになったという話も聞きます。つまり、臨死体験をきっかけにして霊的に開いたということになります。これは十分にあり得ることです。臨死体験とは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたということです。人間には本来、すべての人に霊的な能力は備わっています。ただ、現代の社会を生きる上では、霊的な能力は必要ありません。むしろ邪魔になることの方が多くあります。生きるために必要のない霊的な能力は、持っていても眠っているように蓋がされています。現代社会を生きていく上では、霊能力よりも知識や人生経験を獲得した方が、はるかに有効だからです。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされれば、人間は命をつなぐために、自分が持っている能力のすべてを解放します。そうやって無意識のうちに生きていこうとするのです。そのときに眠っていた能力の一つである“霊能力の蓋”が開かれることがあるのです。ですから臨死体験をした後に、霊的な感覚が鋭くなって、今まで見えなかったものが見えるようになることは十分にあり得ることなのです。そして修験者や修行僧などが、何日間も断食を続けたり、ほとんど寝ないで山の中を走り続けたりするのは、ある意味、閉じられた霊的感覚の蓋を開けるために、自ら臨死体験に匹敵する苦境に自分を追い込んでいるのです。ですから生きるか死ぬかの瀬戸際まで自分を追い込む修業をしたとすれば、それによって霊的な感覚がもたらされる可能性はあります。しかし、毎日食事が提供されて、睡眠をとるための寝具があり、睡眠時間も確保される中では、どのようなトレーニングを積んだとしても、霊的に閉じられた蓋は開きません。そうかと言ってこのために自らの命を危険にさらすというのも私には賛成できません。なぜならそもそもあなたが霊の世界やスピリチュアルの世界に関わって生きていくべき人間であるなら、自ら命を危険にさらさなくても、この世界に入るきっかけはおのずと訪れるものだからです。私自身、すでにこの世界で何十年も生きていますが、自らこの世界に入りたいと思ったことは一度もありません。それでもこの世界で生きていくようになったのは、何か見えない力によって、逆らっても抵抗しても、この世界に向かうように方向付けをされてきたからです。そして最後に「人にはその人が生きていくべき道がある」ことを理解して、私はこの世界に入る覚悟を決めたのです。私は、自分が生きていくべき道に辿り着いたから、何の見込みも保証もない世界に飛び込んでも、これまで生かされてきたのです。(2)へ続く。