10月8日、「地方新聞の投稿欄が、9歳の男の子と77歳のお婆ちゃんの友情を育んだ」という記事が載っていました。まず、9歳の末村楓大君が、地方新聞に次のような投稿をしたのです。
「ぼくがオリンピック・パラリンピックに出たい種目は野球です。でも手の指が(左右それぞれ)1本ずつ、足の指も1本と2本しかないので、(出るとしても)パラリンピックかもしれません」
と書き込んだのです。末村君は鹿児島県の大隅半島にある東串良町の柏原小学校4年生です。障害がありながらも前向きにオリンピック・パラリンピックへの夢を語った末村君の投稿を読んだ南九州市の新平ミフさんは、心を打たれ、その投稿欄にすぐに返事を書きました。
「困難をものともせずに努力を続ける姿は金メダルよりも尊い宝物です」
そう書いてエールを送ったのです。このことをきっかけにして末村君と新平さんの間で交流が始まったのです。
実は私はパラリンピックの中継映像をまったく見ていません。今年の東京パラリンピックでは数多くの競技がオリンピックと遜色がないくらいにたくさん放送されていました。障害を持った方々が、その障害に負けることなく、動く体を精一杯鍛えて、健常者でもできない記録を達成する姿は本当に素晴らしいと思います。ただ、私は霊的な間口が異常に広く、エンパスでありHSPでもあります。選手たちがどれだけ苦しい練習に耐えて、体の痛みと闘いながら頑張ってきたのか。それを思うと自分の心が苦しくなるだけでなく、自分の体も痛みを感じて動かなくなってしまうのです。“素晴らしい”と感動する前に、どうしてそこまで頑張るのか、選手がかわいそうで痛々しくて見ていられなくなってしまうのです。きっとこのように考えること自体が、障碍者に対する偏見なのだと思います。それは分かっているのですが、欠損した手足を精一杯動かしている姿を見ると、私自身がいてもたってもいられなくなってしまうのです。エアコンの効いた室内で、画面を見て何もせずに拍手を送るだけで本当に良いのか。それで“感動した”なんて他人事のように応援することに心の痛みを感じてしまいます。ですから私はテレビを付けたときに、パラリンピックの映像が写れば、すぐに他の番組に切り替えてしまいます。自分が苦しくなるからです。そうやって障碍者スポーツから逃げていたのですが、今回の記事で私の見方が大きく変わりました。
末松君が生まれた時にご両親は医師から
「このままではまっすぐに立つことが難しく、歩けるようになるかどうかもわかりません」
と告げられました。そして移植手術を勧められました。しかしご両親は“生まれてきたままの姿を大切にしよう”と決断して、移植手術を行いませんでした。生まれてきた一人一人がかけがえのない存在なのです。両親のそんな思いを受け止めた末松君は、自分の障害について、
「ぼくが大切にしている言葉は“ないものを数えるな。今あるものを最大限に生かせ”です。この言葉で不安な気持ちが吹き飛ばされて、心を動かしてくれる」と綴っているのです。
私もこの言葉は今までに何度も遣ってきました。でも、障碍者スポーツに関しては、私は心のどこかで障碍者のことを“かわいそうな人たち”と同情していたのだと思います。でも当事者である本人は、私の勝手な思いなど飛び越えて、しっかりと現実を直視して、その先を目指して進んでいるのです。9歳の男の子の一言が私の中にあった偏見を見事に取り除いてくれました。そしてこれからはもっと素直な気持ちで障碍者スポーツを応援できるように思いました。心を動かす感動の種は、思わぬところに落ちていると改めて感じました。(2)へ続く。