明治時代に行われた北海道の開拓が、屯田兵(とんでんへい:北海道の開拓と警備に当たった兵士)や囚人まで動員した過酷な労働によって為されたことはよく知られています。タコ部屋労働はそれ以上に劣悪な労働環境の中で過重労働を強いられました。タコ部屋に入れられた労働者は、粗末な食事と過重労働によって脚気なって次々に倒れました。倒れた労働者は治療を受けられないばかりか、監視役からひどい暴行を受けて病気でも無理矢理に働かされました。その結果、最期はここで命を落としたのです。そうやって3年のこのトンネル工事で無残に死んでいった労働者は100人を超えているのです。そしてその亡骸は、何ら供養されることもなく、近くの山林に埋められてこの事実は隠されたのです。そのためこのトンネル工事が完成した後、近くの山林に山菜取りにやって来た近隣の住人が「人骨を拾った」という出来事がいくつもありました。

 

さらに恐ろしいのは“人柱”です。人柱とはいわゆる“人身御供(ひとみごくう)”のことです。大規模な橋や城や港湾施設などを建設する際に、工事がつつがなく無事に終了することを願って、神様に生贄(いけにえ)をささげる儀式のことです。実際には工事の現場となる土中や水中に生きたまま人間を埋めることを言います。昔は古い風習によってこのような非道なことが実際に行われていたのです。ただ、常紋トンネルの工事現場では、こういった儀式とは異なる形で人柱が埋められました。たとえばあまりにもひどい自分たちの扱いを監督に抗議に行った者や、監視役の指示に素直に従わなかった者たちは、その場でスコップやつるはしで激しく殴られて殺されたのです。そして遺体を見せしめのために人柱と称してトンネル内の壁に埋め込んだのです。

 

トンネル開通後、ここを通過する列車の運転士から、幽霊の目撃談が数多く寄せられました。また、トンネル近くの駅や信号所に住み込んでいる旧国鉄の従業員や家族の中に、原因不明の病気になる人やトンネルを通過中の列車に飛び込む自殺も発生しました。そしてトンネルの近くでは多くの人が男性の苦しそうな低いうめき声を聞いているのです。

 

そしてトンネル通過中の運転士が幽霊を目撃したため、急停止した事故が何度も起きるようになって、国鉄や町はようやく対応に乗り出します。1959年に常紋トンネルから1キロ離れた場所に供養のための歓和地蔵尊(かんわじぞうそん)を建てたのです。ただ、この敷地の周辺からは今までに50体を超える遺骨が発掘されています。さらに1968年の十勝沖地震で常紋トンネルの壁面が損傷したため、その改修工事を行われました。その際にレンガ壁から60センチ奥の玉砂利の中から頭蓋骨に損傷のある人骨が発見されたのです。そして周囲をさらに調べたところ、10体の遺骨が見つかりました。これは常紋トンネルの工事中に人柱として埋められた人がいたことの明らかな証拠になりました。そして1980年になって、金華信号場西側の高台に、石北本線を見下ろす形で「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられました。

 

ここまで読んでいただければ、常紋トンネルが如何に因縁深い場所であるのか、そしてどうして心霊現象の目撃談が多いのか、お分かりいただけたと思います。おそらく数多くの労働者が、見せかけの高額賃金に誘われて、工事現場まで連れてこられたのでしょう。そしてタコ部屋に監禁されて馬車馬のように一日中働かされた挙句、命を落として山林に捨てられたのです。労働者たちの無念は如何ばかりなのか。それを思うと本当に胸が痛みます。私は生涯このトンネルを列車で通過することはできません。ただ、亡くなられた方々の一日も早い成仏を祈るばかりです。

 


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