以前、自分は「太宰治の生まれ変わりだ」という方から相談を受けました。こういった相談はたまにあります。自分が尊敬する人や傾倒しているアーティスト、共感を持っているタレントなどにのめり込んだ時に、自分の人生を相手の人生と重ね合わせてしまうことがあります。そしてそこにお互いの共通点を見出して、人生がシンクロしていると考えてしまうのです。似たようなケースでは、
“有名な歌手が私のことを愛してくれていて、私も彼を愛しているのに、ファンクラブの人たちが邪魔をしてなかなか付き合うことができない。一体どうしたらよいでしょうか”
と尋ねられたこともあります。彼女がそのように考える根拠を尋ねたところ
「コンサートに行くといつも私のことだけを見ている。ギターを演奏中にピックを私を目指して飛ばしてくれた」
と答えました。こういった思い込みは、自分の気持ちを高揚させたり、プラス思考で毎日を過ごす上ではある意味、有効です。ですから頭ごなしに完全否定しない方がよい場合もあります。ただ、この思い込みのために、ファンクラブに頻繁にクレームを入れたり、コンサート会場でトラブルを起こしたりすれば、その責任は自分に降りかかってきます。ですからそうなる可能性がある場合は、ものの見方や考え方を修正していかなければなりません。
ただ、私に太宰治のことで相談をした方は、こういったケースとは状況が違っていました。もっと根の深いところで太宰治と自分の接点を感じていたのです。太宰治(本名:津島修治)は1909年6月19日に青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれました。父親の源右衛門は近在の木造村の豪農「松本家」から津島家に婿養子で入りました。津島家は県内でも有数の大地主で、源右衛門は県会議員、衆議院議員、高額納税者しかなれなかった当時の貴族院議員なども務め、「金木の殿様」と呼ばれていました。太宰治は11人いる子供の中の10番目(6男)として生まれたのです。そして私に相談した方も青森県ではありませんが、隣の岩手県内の豊かな農家の家に生まれたのです。そして誕生日が6月19日で一緒でした。
太宰治は旧制弘前高校へ家を出て下宿から通いました。そして左翼運動に傾倒しながら、19歳で芸者と知り合い恋愛の末に自殺未遂をしています。私に相談した方も高校を卒業後に東京に出てアパートで独り暮らしをしながら大学へ通いました。しかし、大学では左翼グループに入り、学校の内外でアジ( agitation:扇動)・宣伝を行った結果、大学を退学させられています。
太宰は旧制弘前高校を卒業後に東京帝国大学(今の東京大学)文学部仏文科に入学します。しかし、まともに勉強はせずに授業にも出ないで酒と女、そして薬物に溺れる生活をしていました。そして弘前で知り合った芸者を東京に呼んで結婚すると実家に伝えたのです。父親の死後に家の跡を継いで津島家の当主となった長兄は、まだ学生の太宰が芸者と結婚することにもちろん大反対しました。しかし、太宰の意思が固かったため、津島家との分家除籍を条件にして結婚を認め、大学を卒業するまで、毎月120円(今の貨幣価値で30数万円)の仕送りをすると約束したのです。しかし、太宰は大学に5年間通ったものの卒業できずに実家からの仕送りをストップされます。学費も支払われなかったために大学を除籍処分になりました。そして銀座のバーで知り合った女給と鎌倉・腰越の海岸で自殺を図りました。その結果、女給は死亡して太宰は生き残りました。この方も大学を左翼活動によって退学した後、このことを隠して親元から仕送りをもらい続けました。そのお金やアルバイト代は、酒の飲み代と通い続けた風俗店の料金になりました。そしてお店に勤めていた女性とやがて同棲生活を始めました。しばらくたって大学を辞めたことが親元に発覚すると、親元からの仕送りは途絶えて一気に生活が困窮します。そして彼女からも三下り半を突き付けられて、同棲生活を解消して夜の世界で働くようになりました。(2)へ続く。