22時40分を過ぎたころ、支配人はホールや事務所前の通路が騒がしいことに気付いて、ホールに出てきました。しかし、エレベーターの前では7~8人の客とホステスがいつものようにエレベーターを待っていました。支配人はクローク付近がいつもより薄暗く感じましたが、ホールにはまだ煙が少し立ち込める程度だったので、たいしたことはないと考えてしばらく様子を見ることにしたのです。しかし、煙の量は時間が経つにつれてどんどん増していきました。そして南エレベーターから激しく噴き出す煙のため、専用エレベーターはついに使用ができなくなりました。それは店内にいる人達にとって、1階へ戻るために自分が知っている唯一の移動手段が断たれたことを意味します。そして店内はパニックになっていきました。やがてエレベーターから噴き出す煙から逃れるために、避難しようとした人もホールに戻るしかなくなりました。しかし、すでにホールの中は煙によって呼吸ができなくなり、目には激痛が走って涙が止まらないほどの状況になってしまったのです。そしてようやく店内には男性従業員の声で

「火事です。落ち着いて行動してください」

という店内放送が流れました。しかし、防火責任者や従業員による具体的な避難指示や避難誘導は行われませんでした。

 

22時50分を過ぎると、ホールの中は停電による暗闇の中で、猛煙と熱気、有毒ガスが立ち込めて、正常に行動することはほとんど不可能になってしまいました。建物の中の熱さと息苦しさに堪えかねて、7階から地上に飛び降りて命を失う人が続出しました。また、わずかな可能性を求めて、裏側の階段や空調ダクト周辺へ逃げ回った人たちもその場で息絶えました。はしご車の救助を待ちきれずに、伸長している最中の梯子に飛び移ろうとして地面に落下する人もいました。建物東側の商店街のアーケードに飛び降りた人は、プラスチック製の屋根を突き破って、地面に叩きつけられました。唯一の避難器具である救助袋にしがみついてゆっくりと降下していた人は、上から勢いよく滑り降りてきた人にぶつかって、一緒に地上に墜落して亡くなりました。救助袋の外側にしがみついて降下していた人は、摩擦熱の熱さに耐え切れずに、手を放して地上に落下しました。このようにして118名の尊い命が一瞬で失われてしまったのです。

 

この凄惨な火災の原因は3階で作業をしていた電気工事関係者のたばこの火の不始末でした。その後、1980年にこの火災による損害賠償請求が和解したことで、日本ドリーム観光は、建物を解体して、千日デパートの跡地に新しい商業ビル「エスカールビル(エスカールなんば)」を竣工させました。(1983年9月)そして翌年この場所に商業施設「プランタンなんば」が開業したのです。この火災から12年が経過していました。

 

ただ、ここはこれだけ多くの人が無念の思いを抱きながら命を落としたと場所です。慰霊のための祈祷をどれだけ行ったとしても、その悲しみや痛みは簡単に癒えるものではありません。開業した「プランタンなんば」では数々の怪現象が報告されたのです。(5)へ続く。