鳥取県を東西に走る”鳥取西道路”という自動車専用道路があります。この道路は山陰自動車道の一部で、鳥取市内の青谷インターチェンジから鳥取インターチェンジまでの19・3キロしかありません。この道路が全線開通したのは今からわずか2年前です。道は田畑の広がる田園風景の中をのどかに走っています。途中、山間部を通るのでトンネルが多いのは目につきますが、取り立てて危険な道路には見えません。しかし、この道路は開通直後から、毎月10件以上の事故が多発しているのです。最近を見ても、昨年12月に13件、今年に入ってからも1月に11件、2月に15件、3月に17件、4月に11件の事故が発生しています。この道路の長さを考えれば、この事故件数は異常です。そして5月12日には、ほぼ直線区間で対向車線にはみ出した軽自動車がトラックと正面衝突しました。そして軽自動車を運転していた87歳の男性が死亡したのです。

 

専門家はこれだけ事故が多発している原因として、トンネルを出てからすぐにまた次のトンネルが続いてくるため、明るさに対する順応ができていないのではないか。或いは単調な田園風景が続くために、周りの景色に慣れてしまい集中力を保てないのではないか。さらには高速道路に慣れていない地元住民が生活道路として使用しているため、高速慣れしている長距離ドライバーとの混在が危険を生み出しているのではないかと、さまざまな見解が示されています。しかし、どの意見もこれだけの事故が多発している理由を的確にとらえているものではありません。

 

私の見解は、”引き寄せ”だと感じます。鳥取県では戦国時代に”鳥取の飢え殺し(とっとりのかつえごろし)”と言われるような悲惨な戦が行われています。これは1580年に豊臣秀吉が、因幡の国の守護である山名豊国が籠る鳥取城を3か月にわたり包囲した第一次鳥取城攻めに続き、翌年に毛利家から迎えた新たな城主「吉川経家」が籠城する鳥取城を前回にも増して、完全に兵糧も飲み水もすべて遮断して、4か月にわたって包囲した戦のことを言います。この第二次鳥取城攻めでは、城内に籠城した兵士は、昼夜を問わず城外から鉄砲を撃たれる恐怖と飢えで疲れ果てて多くの者は正気を失ったと言われています。そして飢えに堪えられなくなった城兵は、死体の肉を陣中で奪い合い、もっとも栄養価の高い脳は真っ先に死体から剝ぎ取られていたと記録されています。4か月後に城主「吉川経家」らの切腹と引き換えに命を助けられた兵士も配給された米を勢いに任せて喰らったために、その約半数は胃痙攣で死亡したと言われています。

 

私は事故多発の原因としてこの頃凄惨な戦の因縁を考えました。鳥取城は鳥取西道路から離れていますが、支城が周囲に作られますからその影響があるのかと考えたのです。しかし、画像を入念に確認しましたが、戦国時代の因縁因果はこの道路には残されていませんでした。毎月10件以上も事故が起きていれば、事故を起こした人の後悔や無念の思いは日に日に降り積もっていきます。それらの思いが運転中のドライバーに入り込み、一瞬の判断を誤らせているのです。この道路のあちこちに残っているネガティブな思いと波長が合ってしまえば、その瞬間にいつもの自分でない時間ができてしまいます。それは生霊の影響を受けて、タイミングや無意識の選択がずれていく様と同じなのです。

 

以前、このブログでJR新小岩駅や茨木県鹿島港の南防波堤で事故が多発していることに触れました。このように亡くなった方の魂や生きている人の念が事故を引き寄せている場所は日本中あちこちにあります。ですから事故が多発している場所や不慮の死を遂げた人がいるところにはくれぐれも近づかないようにしてください。