私から見ると、結婚前に相手に抱いた不安や嫌悪感は、結婚して一緒に生活するようになったことで、慣れるとか消滅することはありません。逆に一緒に過ごす時間が長くなったことで、時間の経過とともに増大して、最後はそのことが許せなくて離婚の原因になることが多いのです。
この女性の場合も彼氏の言動から結婚前にすでに暴力に対する不安は感じていました。ただ、結婚式へ向けて着々と準備が進められていく中で、次第に“もう後戻りはできない”と思っていったのです。すでに結婚式の場所も日取りも決まっています。今は招待客を決めて招待状を送る準備をしているところです。友人たちからは祝福されて冷やかされて、他人から見れば今の自分は幸せの真っただ中にいるのです。その幸せに見える自分を自ら放棄する勇気はありません。そしてこの時点では彼の暴力的な志向は感じていても、自分が実際に暴力を振るわれたわけではありません。だから彼女は自分に言い聞かせていました。
「理知的で教養もある彼が、妻に暴力をふるうわけはない」と。
そして30歳を過ぎた自分は、“もう、遠回りしないで早く子供を産みたい”と、思っていたのです。そんな彼女が、ここまで話を進めてきて、後戻りするという選択はあり得ないことでした。それはまさに標高8000mまでエベレストを登ってきて、山頂まで848mを残して撤退することと同じでした。
彼女の幸せな結婚生活はわずか1年で崩壊しました。彼女が彼に感じていた不安は見事に的中して現実のものとなって自分に襲ってきたのです。彼女が夫からひどい暴力を振るわれていることは、突然家を訪れた両親の知るところとなりました。家に来ることを執拗に拒み続けていた娘を心配した両親が、いきなり家を訪ねてきました。そして、顔を腫らして傷だらけの娘と対面したのです。彼女の両親は、夫が帰宅するのも待たずに、すぐに娘を実家へ連れて帰りました。彼女は心と体に大きな傷を負って離婚したのです。
万全でない天候の中でエベレスト登頂を果たしたものの下山中に遭難して命を落とした登山家も、海外進出の夢を諦めることできずに、強引に海外に進出して会社をつぶしてしまった経営者も、彼氏の言動の中に暴力的な志向を感じながらも結婚を強行して大きく傷ついて離婚した女性も、根っこは同じです。彼らは自分の夢にこだわり、そこに強く執着した結果、冷静な判断ができなくなって道を誤ったのです。
執着心は良い方向へ向かっているときは、壁にぶつかってもへこたれない粘り強さを発揮します。そして夢を叶える原動力になります。しかし、他の選択肢が見えなくなるまで妄執してしまうと、進むべきでない方向へ入り込んでしまい、抜き差しならないところまで追い込まれます。そして、大きな対価を支払ってその道筋から退場させられるのです。
人生は選択の連続です。人は意識的にも無意識のうちにも毎日数多くの選択をしています。そして、どれだけ苦しい状況に追い込まれていても、自分の選ぶ選択肢は常に複数存在しているのです。ですからそれらの選択肢を冷静に良く見渡してみて、その中から最善の道を選んでいくことが重要なのです。自分の執着によって1本の選択肢しか見えない状況になった時、それは破滅に向かって歩み始めていると考えてください。ある経営学の学者が事業で成功した経営者たちを調査した後で、次のような言葉を残しています。
「事業で大きな成功をしたトップ3%の経営者は、どのような状況であれ、撤退することを恐れない人たちであった」と。