私はこの1週間ほど前に、ネットでたまたま検索していた時に、とても悲しいニュースを目にしていました。昭和30年7月28日、三重県津市の中河原海岸で、水泳の授業に参加していた市立橋北中学校の女生徒36人が溺死する大惨事が起きていたのです。橋北中学校では当時、学校行事の一環として、毎年夏季に水泳訓練を実施していました。この年は中川原地区の通称“文化村海岸”で、7月18日から7月28日の10日間の予定で毎日午前中に実行されました。参加生徒は男子204人、女子197人の合計401人。引率教員は校長をはじめとして19人。生徒たちは男女別・水泳の能力別に男子7組、女子10組に分かれて水泳訓練に参加しました。この日は水泳訓練の最終日でテストが予定されていました。

 

当日の天候は快晴で無風、訓練開始の午前10時の時点で海面には波もうねりもありません。また潮の流れも小潮の中でも最も干満差の少ない七分満ち。海はとても穏やかだったのです。訓練エリアは海底に旗のついた竿を立てて仕切られていました。女子は幅50mで海岸からの奥行きは41m。この範囲の水深は約1mでした。このエリアには教員の他に補助員として男子水泳部員も配置されていました。この状況を見れば、これからこのような惨劇が起こることは誰にも想像ができませんでした。

 

ただ、午前10時に入水の指示が出されてから5分も経たないうちに異変は起こりました。197名の女子生徒のうちの約半数が突然、溺れだしたのです。潮の流れに乗ってしまい旗の外へ流されたり、海の底へ引き込まれる者が続出したのです。女子生徒の多くは海中から浮かび上がることができずに溺れるしかありませんでした。近くにいた教員や男子水泳部員は溺れた女子生徒を必死で救助しました。他の教員や生徒は近くの病院まで自転車を飛ばして医師や看護師を呼んできました。他の病院から自動車で現場へ向かう医師を見た警察は、すぐに救助隊を現場へ向かわせて、自衛隊にも支援を要請しました。病院へ運ばれて一命をとりとめた女子生徒もいましたが、運良く助かった生徒の中には長期入院を余儀なくされる者もいました。そして浜北中学校の女子生徒36人の命がこの海で奪われてしまったのです。

 

この事件は国会でも取り上げられ、当時の文部大臣と文部省の初等中等教育局長が答弁して、原因の究明が行われました。調査の結果、原因は異常流(今でいう離岸流)と急激な水位上昇とされましたが、本当のところはよく分かりませんでした。

 

事件から1年経った翌年の7月に、地元紙がこの事件について、生存者の談話を掲載しました。その中でこの事件には太平洋戦争の被害者の霊が関わっているという話が広がりました。それは太平洋戦争終戦間際の昭和20年7月28日に、この辺りはアメリカ軍の焼夷弾による攻撃を受けて焼け野原になりました。そのとき焼夷弾による火災から逃げるために多くの人たちが海へ逃げました。この現場と同じ中河原の海です。そのとき河口から海へ注ぐ流れと、上げ潮の流れがぶつかる波に飲まれて、100余名の命が今回と同じ場所で失われていたのです。その中には防空頭巾をかぶった女学生もたくさんいました。その人たちのご遺体(遺骨)は、海に流されて今もこの付近の海底に埋まっているのです。そして、空襲のあった昭和20年7月28日はまさにこの事件のちょうど10年前の出来事だったのです。

 

この地元紙の報道の中で生存者は海の中にいるときに、モンペを履いて防災頭巾をかぶった女学生が何人もいたと話しています。中にはモンペ姿の女学生に足を掴まれたと話した生存者もいました。この話は8年後に「女性自身」で報道されて広く知られることになりました。今、この現場の近くには、この海岸で亡くなった方々の魂を鎮めるために、慰霊の“女神像”が建立されました。ただ、近所では“この女神像は時々、目から血を流している”とうわされています。私はこの女神像の画像を確認しましたが、そこには、若くして命を絶たれた女学生たちの無念が満ち溢れていて正視できませんでした。命を落とされた方のご冥福をお祈りいたします。