私は仏教や神道に由来する呪詛や、キリスト教による呪いについて、若い頃にかなり執拗に学び、実践したことがあります。日本的な呪詛では人形や人型に、呪う相手の髪の毛や気を入れて封じ込める方法や、丑の刻参りのように相手に見立てた藁人形に釘を打ち込んだり、針を刺す方法など、さまざまなやり方があります。ちなみに私は、死霊や生霊から持ち主を守るために、木製人形を使う時があります。この際も私が念を込めて削った人形の中には、守る人の気を取り込むために髪の毛を埋め込んでいます。
キリスト教に由来するヨーロッパに伝わる呪いの方法は、主に魔術や黒魔術と呼ばれるやり方です。“ソロモンの鍵”と言われる呪文を唱えながら、魔法陣の中から魔界の生き者を呼び出して、相手に危害を与える方法があります。ローマ教皇ホノリウス3世は、西暦1148年~1227年に実在した人物です。この人物は、教皇就任後は十字軍の結成に尽力したと記録に残っていますが、一方で別の面でも大きな仕事をしています。教皇は当時、世界中にいる呪術師や妖術師を招集して、免罪符を与える代わりに、その方法を聞き出したのです。それは“教皇ホノリウス3世の奥義書”としてまとめられて、後世に伝えられました。
また、17世紀から19世紀初頭にかけてのヨーロッパでは、“グリモワール”と呼ばれる魔術の手引書が数多く流布されて、人々に伝えられました。そこには魔術を使った呪いのルールややり方が詳細に記されていました。私も当時、悪魔を呼びやすいと言われている深夜に、誰もいない廃屋に出かけて地面に魔法陣を描いて安全地帯を作ったことがあります。そしてグリモワールに書かれた方法を忠実に実行して、ドキドキしながら悪魔が出てくるのかどうか試したことがあります。その瞬間、周囲の木々が揺れだして満月は雲に隠れました。しかし、結果的には、悪魔はどれだけ待っても現れませんでした。
日本式の呪詛も西洋式の魔術も私はそれを否定する気はありません。それは現実に何か目に見えない力によって人生を狂わされたり心身の不調に陥る人を何人も見てきたからです。その多くは霊(死霊)という(私には)実態の見えるものの影響によるものです。しかし、死霊の影響が無くても、目に見えないものの力によって人生を狂わされてしまう人たちはいます。その多くは生きている人が無意識のうちに出してしまう念(生霊)によるものですが、呪詛のようにはっきりとした意思を持って影響を与えてくることも確かにあります。
呪詛にせよ魔術にせよ、そこには決められた一定のやり方があって、そのルールにしたがって相手を呪っていきます。私はそのときにポイントになるのはそのルール(作法)ではなくて、施術者の思い(念)にあるように感じます。もっと言えば、呪詛や魔術を進める上で行う様々なルールは、施術者の集中力を高め、強く念を引き出すために行っている作業だと感じることもあります。
言葉には力がありますから、人を呪う際に唱えるマントラには一定の力があります。そして、人間が出す念(生霊)にも力があります。しかし、呪詛や魔術を行う際の作法(ルール)そのものに力があるというのは意味が分かりません。つまり、呪いによって相手を不幸な状況へ陥れることができるのは、呪いのやり方よりも、人を呪う人間の念(思い)の強さが引き起こしている現象だと感じてしまうのです。本当に恐ろしいのは、人の心ということではないでしょうか。