私のホームページの掲示板でも触れられていましたが、私は5月22日に鎌倉で出張鑑定を行いました。この鑑定日時につきましては、相談者の方から5月16日にメールで出張鑑定の申し込みが入り、
「土日か5月22日(金)でお願いします」
ということで決めました。この方の霊視鑑定は約10年ぶりのことです。
私はいつものように世田谷から車で、環状8号線~第3京浜~横浜新道~横浜横須賀道路を通り、朝比奈インターで高速道路を降りて鎌倉へ向かいました。方角で言うと鎌倉市内の東側から朝比奈峠を越えて鶴岡八幡宮前に出るルートです。途中に鎌倉霊園の横を通ります。ここには私の両親の墓があります。道は空いていて予定より45分ぐらいの余裕があります。私は鎌倉霊園へ立ち寄り、墓参りを済ませてから相談場所の鎌倉駅前の貸会議室へ向かいました。
このルートは今までにそれこそ100回以上は通っていますが、朝比奈峠に入ってから八幡宮前に抜けるまではいつも良い感じがしません。特に鎌倉霊園の辺りは、昔から入り口の電話ボックスに幽霊がいたとか、峠で首のないライダーを見たといった目撃談が絶えません。
鎌倉は東西北の三方を山に囲まれ、南には海が広がっています。この地形が天然の要塞になるため源頼朝はこの地に幕府を開いたと言われています。しかし、1333年5月18日、新田義貞が軍記物語の誇張表現では数十万と言われる大軍を率いて鎌倉に攻撃を開始。防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられました。しかし、新田義貞軍は5月21日夜に、引き潮に乗じて鎌倉市西の防衛線の稲村ケ崎を突破して一気に市内になだれ込みました。これをきっかけにして、北側と東側の防衛線も突破されます。新田義貞軍は中心部に近い由比ガ浜に火を放ち、当時の鎌倉幕府第14代執権の北条高時邸へ迫ります。1333年、5月22日、負けを覚悟した北条高時は一族郎党を率いて菩提寺の東勝寺へ集まりました。そこで女子供や幼児まで、北条一族や有力御家人870人が、ここで自害してこの戦いは終わりました。当時、満29歳だった北条高時もここで腹を切って果てました。
この辺りでは、1953年から1955年に行われた鎌倉簡易裁判所の用地調査で900体以上の人骨が発見されました。1995年から1997年に行われた鎌倉海浜公園の地下駐車場工事では、4千体の人骨が見つかり、近くの稲村ケ崎でも1千体の人骨が出土しました。鎌倉という町はそれだけの重たい念(思い)を抱えています。私がこの日に通ったルートには、“太刀洗”とか“岐れ道”といった意味深い名前の地名があります。北条一族が自害した東勝寺は私がこの日に通ったルートからわずか400メートルしか離れていません。この寺自体、1512年まではこの地に存在していた記録が残っていますが、その後は公の記録もなく、いつの間にか無くなっています。今、東勝寺跡には、供養のために洞窟の中にたくさんの祠が建てられています。そして現在、この場所を管理している宝戒寺によって、“腹切やぐら、霊処浄域につき、参拝以外の立ち入り禁”の立て札が立てられています。
私は出張鑑定が終わったあと、ふと時計を見て気づきました。
“5月22日”
鎌倉に来たのは約1年ぶりですが、この日はまさに北条一族が東勝寺で命を絶ったその日でした。“もしかして呼ばれたかな”そんなことを考えながら、帰り道に車を東勝寺跡に止めて思わず手を合わせずにはいられませんでした。