私はまだかろうじて輝いている太陽を基準に帰る方向を決めました。南アルプス市内から北岳の麓に入った私は、方位で言えば東からこの山へ入ったことになります。今、西の空に傾いている太陽の反対側が東になりますので、東を目指して早足に歩き続けました。そして持ってきたビニール紐を歩きながら近くの木に巻き付けていきました。自分では直進しているつもりでも方向感覚が無くなると大きな円を描くように森の中を周回してしまうことがあります。そうならないための道しるべです。
あたりはどんどん暗くなりましたが、私に恐怖はありませんでした。こういった状況で今までに何度も危ない目に遭ってきましたから、今回はリュックを背負って、飲み物や食べ物、そして懐中電灯や上着まで持ち込んでいました。最悪、ここで夜を明かすことになったとしても、2日3日なら十分に生きていけます。
私は東京に住む家族や友人のことを頭に思い描きました。この場所から見ると東京はほぼ真東の方角になります。誰かの霊的な波長を感じてそれを頭の中の地図に刻み込みます。そしてその波長を追いかけることは行方不明者を探すことと同じことです。東にいる人間の波長を頭に刻み込めば、私はおのずとその方向へ進むことができるのです。
ただ、不安なこともありました。方位磁石が誤作動するということは、この場所は正常な空間ではありません。魔界や霊界とどこかでつながっている可能性もあります。こういった場所で、ひどい霊体験をしたことは過去に何度もあります。それはこのブログでも何度もお伝えした通りです。日が沈んで辺りが真っ暗になり、私は懐中電灯をつけました。予備の電池も持参しましたので明りは確保できています。
私はときどき倒木の上に腰掛けて水や食べ物を補給して休息をとりました。そして周囲を見回したとき、近くに灯りが点在していることに気づきました。森の中にある灯りは、街路灯のように2列になってまっすぐに並んでいます。それはまるで私をこの光の中に誘って込んでいるように見えました。私は何か得体のしれない恐怖を感じながらも、引き寄せられるようにその灯りに近づきました。
すると森の中に木製の古ぼけた鳥居が浮かび上がりました。2列に並んでいる灯りは鳥居から続く参道の灯篭でした。その先には本殿のような社があって、その手前のスペースには大勢の人が立って、本殿へ向かい手を合わせています。人々はみんな粗末な着物を着ています。私はこの人たちが今の時代の人でないことはすぐにわかりました。
私は鳥居をくぐり、参道を通って本殿に近づきました。その時です。近くにいた人たちが一斉にこちらを振り向きました。そして無表情のまま私に迫ってきました。私は驚いて後ずさりしました。すると、後ろにいた若者が私の右腕を掴みました。そして強い力で私を押さえつけてきました。私は思いっきり腕を振りほどいて、入ってきた鳥居へ向かって走りました。そしてすぐに霊に対抗するマントラを唱えようとしました。
しかし、いつも挨拶のように当たり前に口から出ているマントラが、このときに限ってまったく喋れません。人々は今にも私に迫っています。私はマントラをあきらめて、印を結んでから、振り返って空中に九字を切りました。九字はしっかりと壁を作り、ここにいた人たちは、それ以上私に近づけません。私はそのまま森の中を必死で走り、気が付くと暗闇の中で、町へ続く小道までたどり着いていました。ホッとした私は、自分の体を眺めてみました。右腕には手形の痣と食い込んだ爪の後がしっかりと残っていました。
私がこのとき体験した世界は何だったのか。過去の世界なのか、パラレルワールドなのか。或いは霊界なのか。それは今でもわかりませんが、夢でないことは、右腕に付いた傷痕から明らかなのです。