北九州市八幡西区に、かつて「花尾城」という城がありました。この城は1194年に麻生家の先祖「宇都宮重業」によって築城され、1586年に豊臣秀吉の九州征伐によって、「麻生家氏」が豊臣方に敗れ、国替えとなって廃城になりました。この間、「麻生上総介重郷」が城主であったとき、のちに強い因縁を残す悲話が生まれています。

 

当時、京都の公家「冷泉家」の娘に京都一の美女と言われた「紅梅姫」がいました。上総介と紅梅姫は一目会ってお互いに見初め合いました。そして紅梅姫は周防の国の戦国大名「大内義興」の養女となり、上総介の側室となりました。上総介は紅梅姫をとても寵愛して、いつもそばに置くほど二人は愛し合っていました。ただ、この状況に上総介の正室である柏井の方は非常に嫉妬して紅梅姫を憎みました。柏井の方は上総介から紅梅姫を遠ざけるために、家臣の「飯原金吾」に相談しました。飯原は親族の「沢原市右衛門」に、紅梅姫の筆跡をまねて、偽の恋文を書かせました。それを上総介に見せたところ、疑いもせずにそれを信じた上総介は、激怒して紅梅姫の言い訳も聞かずに城から追い出してしまったのです。

 

愛する上総介から見捨てられた紅梅姫は頼る人もないこの地で、夜は庵にこもり、月の出る夜だけ白い馬を駆って気を晴らしていました。しかし、心を病んだ紅梅姫は1495年8月14日に懐剣で自ら胸を刺して自害しました。

 

それから花尾城ではさまざまな怪異が起こり始めます。上総介が紅梅姫のために城内に建てた御殿には、娘の八重姫が住んでいました。八重姫はここで暮らすようになってからたびたび原因不明の体調不良で寝込むようになりました。そして、ある時、母親の柏井の方が見舞いに訪れると、八重姫の形相が一変して、突然、母親に襲い掛かりました。そして

「妾は紅梅である。謀られた恨みを思い知れ」

と叫びながら、柏井の方の肩のあたりを懐剣で何度も刺し続けました。八重姫は供の者に取り押さえられて、柏井の方は一命をとりとめます。しかし、その後、七日七晩苦しみぬいてから死んでしまったのです。

 

また、紅梅姫を陥れた飯原金吾は、紅梅姫の1周忌法要で酒をたいそうに飲み続けた帰り道に、突然、両手で自分の顔を掻きむしり、紅梅姫の名前を叫びながら、近くの池に飛び込んで溺死しました。

 

その頃になると、花尾城下では人々が怪奇なものを目にするようになります。月夜の夜に馬の蹄の音が聞こえてきたり、白馬に乗った白い衣を着た女が月へ向かって空を駆け抜ける様子が目撃されたのです。

 

そして、紅梅姫の偽の恋文を書いた「沢原市右衛門」にもその報いが訪れます。紅梅姫の三回忌の法要が城内で行われた日、法要を終えて城を出た市右衛門は突然、城の門の前で倒れました。その額には馬の蹄で踏みつけられた跡が残っていたと言われています。このとき市右衛門の近くにいた侍は、道を白馬が疾走して行ったと話しているのです。

 

これらの状況を見て、上総介は自分の短慮を後悔して、紅梅姫の怒りを鎮めるために、城内に堂宇(=仏像を安置して礼拝供養するための屋根のある建物)を建立して1体の地蔵を祀りました。それが紅梅地蔵なのです。この地蔵尊は霊験あらたかな女のお地蔵さまとして女性の信仰を集めていましたが、昭和20年8月、八幡大空襲によって焼失しました。そして昭和56年5月に浄蓮寺の境内に新しい紅梅地蔵堂が浄蓮寺の婦人会有志によって建立されました。人の思いの強さは、時に自分の命が尽きた後も後世に残り、人に影響を与えるものなのです。