1951年10月10日、現在のJR勝浦駅に、母親(29歳)と3人の幼子がやってきました。行商に出たまま行方不明になっていた夫を探すためにここまでやってきたのです。犯人の栗田源蔵は、言葉巧みに「家まで送る」と言って、母親に近づきました。栗田は母子4人を「おせんころがし」まで連れてくると、最初に長男(6歳)を石で滅多打ちにしたあと、崖から投げ落として殺しました。次に長女(11歳)を捕まえると、長男と同じように石で顔や頭部を殴打して崖から投げ捨てました。ただ、長女は運良く崖の途中に引っかかり、そのまま茂みの中に身を隠したため、命はとりとめました。そして栗田は、母親が背中に背負っていた次女(3歳)を取り上げると、地面に何度も叩きつけてから、崖から投げ落として殺しました。そして、母親を強姦して目的を果たした後、首を絞めてから崖下へ投げ捨てました。しかし、母親も崖の途中に引っかかったため、栗田は崖を降りて母親を執拗に探しました。そして母親を見つけると、石で顔や頭部を何度も殴りつけて、完全に息の根を止めました。

 

この栗田という男は、今回の殺人が初めてではありませんでした。栗田は1947年に、結婚の約束をしていた当時20歳と17歳の女性を殺害していました。当時の栗田はヤミ米のブローカーをしていて羽振りが良かったのです。そこで結婚を迫ってきた20歳の女性が煩わしくなり、性交後に絞殺しました。そしてそのことを17歳の女性へ話したところ、

「それは、大変、警察へ知らせなきゃ」

と言われて、発覚を恐れて慌てて絞殺しました。栗田はこの時すでに殺人未遂や窃盗などで逮捕歴がありましたが、この二人の殺害は発覚せずにいました。この殺人事件は、そのあとの殺人罪で逮捕された後、自供によって発覚したのです。

 

しかし、このとき栗田は殺人事件で逮捕されなかったことを良いことに、さらに犯行を侵すのです。1951年8月8日。栃木県小山市で盗みに入る家を物色中に、ある家の窓から中をのぞくと若い母親(24歳)が赤ん坊と寝ている姿を目撃しました。その寝姿に欲情すると、ズボンを脱いで室内に侵入しました。母親が気付いて大声を上げると、布団に押し倒して、近くにあった布で首を絞めながら強姦して殺害したのです。

 

栗田は「おせんころがし」で母子3人を殺した後も犯行を重ねています。1952年1月13日。千葉市内で主婦(63歳)と義理の姪(24歳)の遺体が発見されました。発見者の隣人は、1月14日15日の2日間、被害者の家の戸が開かず、話し声もしなかったことを不審に思い、家の中に入って二人の遺体を見つけたのです。主婦は腹部を鋭利な刃物で刺され、姪は強姦された後に手拭いで絞殺されていました。警察は現場が迷路のような路地であったことから、犯人を土地勘のある人間に絞り込みました。また、周辺では窃盗事件が多発していたため、付近にたむろしている不良グループのリーダー格の栗田が疑われました。また、隠れていた義理の弟の家から、血の付いた包丁が発見されました。義理の弟の家で栗田が寝ていた布団は、殺された姪が事件当夜敷いていたものだと分かり、栗田は逮捕されました。栗田はこの短期間に8名もの人を殺していたのです。栗田には当然、死刑判決が下され、1959年に死刑が執行されました。

 

話を戻しますが、被害に遭われた母子が、このような稀代の殺人鬼と関わりを持ってしまったJR勝浦駅は、「おせんころがし」の隣町になります。また、数々の殺人の中でも最も凄惨な殺し方をした場所が、「おせんころがし」であったということ。これはこの土地に残されたお仙の因縁因果と決して無関係ではないように思います。良くない土地では良くないことが起こるのです。