先日、「自宅の庭にある木を見てほしい」と頼まれました。聞けば、その方が生まれる前から、ご実家の庭には大きな桜の木が生えていました。その桜はこの方と共に成長して、今では平屋建てのご実家の屋根よりも高くなっています。そのご実家も築50年を越えてしまったために、木造建築のあちこちに不具合が出ています。そこで実家の建て替えをしようとしているのですが、大きな桜の木がどうしても邪魔になってこのままでは敷地を有効に活用することができないのです。この方は何度も切り倒してしまおうと考えたのですが、子供のころに祖父から「古くなった木には精霊が宿っている。だから無下に切り倒してはいけない。そんなことをすると祟りを受ける」と言われていたのです。その言葉がどうしても心に引っかかっていて、私にこの桜に精霊が宿っているのかどうか確認してほしいと依頼してきたのです。

 

古来より、日本には”八百万の神”がいると考えられてきました。山をご神体とする神社があるように、山には山の神様がいます。同じように海にも川にも池にも神様はいます。そう考えると木に精霊が宿ることも特段、ありえない話ではありません。実際に古事記には「久久能智神」、日本書紀は「句句延馳」(読み方はククノチ、或いはクグノチ)という木の神様が登場します。日本書紀によると、ククノチはイザナギとイザナミの子供で、山の神、川の神、海の神の次に、木の精ククノチとして生まれたことが書かれています。ちなみにククノチの次には、草や野原の精である「草野姫(カヤノヒメ)」が生まれています。ククノチはあちこちに生えている木々の総称となっているのです。また、樹木に宿る精霊は木霊(こだま)と呼ばれ、山で大声で叫ぶと、声が周囲の山から反射して返ってくる”こだま”は、この精霊の仕業だと考えられていたのです。

 

こういった考え方もあって、まっすぐな国道が、1本の木によって大きく迂回されている場所が各地に存在します。その木を切り倒せば、まっすぐな直線道路になるのに、わざわざ道を迂回させているのは、それなりの理由があるのです。平将門の首塚は、東京都千代田区大手町という都心の一等地にあって隣には三井物産の本社が建っています。関東大震災の後の都市再開発や戦後のGHQによる区画整理で何度も取り壊されそうになりながら、未だにこの地に存在しているのは、工事を行おうとした関係者や工事の発注者に不審な死を遂げる人が続出しかたらです。このように禁忌に触れてはいけない場所やいけないものはさまざまに存在しているのです。

 

私は依頼を受けてから、時間を作ってこの方のご実家へ伺いました。桜の木は母屋の目の前の庭にしっかりと根付いて立っていました。私は静かにこの木に触れて、耳を当てました。木は生きていますからその中には水が流れています。しかし、本来なら聞こえるはずのない木の中を流れる水の音が私にははっきりと聞き取れました。それは人の体中に血管が張り巡らされ、その中を血液が流れているように、鼓動や躍動感を感じるものでした。

”この木には命があり、力がある”

そのことを精霊と呼ぶのか、木霊と呼ぶのかはともかく、私ははっきりとしたパワーをこの桜の木から感じました。私は

「建て替え工事中はこの桜は植木屋さんに預かってもらい、工事が完了したらまたこの庭に埋め戻してください。庭の隅でもよいので、この家の敷地の中に立たせてください」

と話しました。それは私の口から出た言葉ですが、この桜がそのように望んでいるように思えてならなかったからです。