シンクロニシティとはユングが提唱した概念で、意味のある偶然の一致のことです。日本語では“同時性”とか”共時性“と訳されます。このブログでも何度か取り上げた「ネブラスカの奇跡」(=15人の教会の聖歌隊のメンバーが、それぞれ全く異なる理由で、その日にかぎって練習に遅刻しました。そのことによって15人全員がガス爆発事故から奇跡的に救われた事件)にあるように、人と人は潜在意識よりさらに深いところにある人間の共通認識の世界(=集合的無意識の領域)で、つながっているとする考え方です。
霊の世界でもシンクロニシティはしばしば起こります。私は若いころに友人同士で旅行へ出かけた時、ふとしたきっかけから昨夜見た夢の話になりました。妙にリアルな夢でしたので、その内容を詳細に覚えていました。すると友人の中の一人が、私と全く同じ夢を昨晩見たと言い出したのです。私も他の友人たちも彼が話を合わせているのだと思い、彼を追求しました。彼は真剣な顔をしてそれを否定しただけでなく、夢の先の展開を私たちに話したのです。それは私がまだ、友人たちに伝えていない夢の続きでした。それは私が見た夢と完全に一致していたのです。
私は一時期、廃神社の神主の霊に悩まされていた時がありました。非常に執拗で狡猾な霊で、何度祓ってもしつこく付きまとってきました。そしていつも眷属を従えていて、これらが束になって襲ってきますので、霊障を受けるときのダメージもとても重いものでした。この神社は元々は歴史もあり、由来もしっかりした神社でした。ただ、この神主になってから没落して、今は廃墟のように廃れてしまいました。そして管理する人もなく放置されたままになっています。
このように廃れた理由は、この神主が時の権力者に頼まれてこの神社で呪詛を行うようになったからです。呪詛を行ったことでこの神主は多額の謝礼をもらいました。しかしその代償として、悪念をいだく不浄霊や魑魅魍魎を大量にこの神社へ呼び込んでしまったのです。そして人々は寄り付かなくなり、自分自身も悪念の渦に飲まれてあの世へ上がることができなくなっているのです。神仏に携わるものはそれなりの力を持っています。だからこそ、呪詛をすることなど言語道断で、それは自分の魂を悪魔に売り渡すようなものなのです。そして自分自身も悪意の中で破滅していきます。
私はこの頃、この神主の影響でしばしば体中に痣や傷を作っていました。あるとき、ひどい霊障を受けている方から相談を受けました。私はこの方を見たときに、何か私と似たような空気を感じました。しかもこの方の額と腕には痣のような痕がついていました。
額の痕は横一直線で、腕は2本線が入っていました。これは江戸時代の中期以降に始まった“入れ墨刑”の痕です。よく時代劇を見ていると、島帰りの罪人の腕に2本線の刺青が入っています。この時代になると江戸や大阪などの都市部に人口が集中し始めました。その結果、犯罪が増えたため、犯罪者を一般市民と区別したり、犯罪予備軍への見せしめとして、犯罪者には一目でそれと分かるように刺青を入れたのです。刺青のデザインは地域によって異なりました。江戸の罪人は丸に2本線ですが、京都では濁点のような点が2つ、また長州ではひし形が二の腕に掘られました。また、肥前や阿波では額にバツ印や3本線が掘られました。広島では初犯は額に横一直線が掘られ、前科2犯はそれにノの字が加えられました。そして前科3班になるとさらに手が加えられて“犬”の文字が額に完成したのです。
さて、話が横道へそれましたが、この方の額と腕の痣はそのとき私に付いていた霊障の痣と全く同じだったのです。この方のお住まいは、私が霊障を受けた廃神社の近くでした。この神社は東京から400キロも離れていましたが、この方は私と同じ時期に同じ神主の霊から同じような霊障を受けていたのです。
また、以前、対面で除霊を行うために福岡へ飛行機で向かうとき、私の乗った羽田空港行きの電車が人身事故で止まってしまったことがありました。電車は1時間以上も動かなかったため、私は電車の中から携帯電話でメールを送り、お約束の相手へ事情を説明しました。するとその方も福岡空港へ私を迎えに行くために乗った地下鉄で人身事故があって、まだ地下鉄の車内にいると返信が来ました。霊の世界ではこのようなシンクロニシティがしばしばあります。こういったことを経験するたびに、ユングが提唱するように、人間はどれだけ現実の距離が離れていても意識の深いところではつながっていると思えてなりません。