先日、出張鑑定でお会いした方は、交通事故に遭って臨死体験をしてから、霊的なものが見えるようになったと話していました。臨死体験をするとどうして霊的な間口が開くのか。そのことについては以前、このブログで詳しくお話ししました。それは本来、すべての人に備わっている霊的な感覚が、現代社会を生きる上で、必要のないものになってしまったために、いつの間にか蓋をされたように閉ざされてしまったのです。人間の先祖である“霊長目”の先祖が、二足歩行を始めた時点でむしろ生活の邪魔になる尻尾は退化していきました。このことと同じように生きていく上で不必要なものは淘汰されていきます。その結果、霊的な感性はすべての人が持っていながら、蓋をされて発露することが無くなったのです。

 

ただ、臨死体験とはまさに生死の境のことです。人間が生命体である以上、生命を維持できるのかどうかの境界は、人生最大のピンチです。その状況になったとき、生命体は自分の持っているすべての力を発揮して命をつなごうとします。その結果、霊的感性の蓋が開いて、霊能力が開花することがあるのです。

 

こういった形で霊的な間口が開いた場合、短時間で急速に霊体験を重ねていくことになります。いきなり霊体が見えたり、幽体離脱を体験したり、時間や空間の認識が大きく乱れたりします。ただ、私もそうですが、生まれ持って霊的な感性を備えていた場合、霊的な感覚は徐々に研ぎ澄まされていきます。

 

私は物心がついたときから、霊的な感覚がありました。ただ、霊体の見え方一つをとっても、幼いころから比べると成長するにしたがってリアルに目に映るようになっていきました。最初はただの白や黒の煙のようなものが、室内のあちこちにしばしば見えるようになりました。それがやがて人間の輪郭を形作るようになり、煙で作られた人間の輪郭の中に顔や体が現れるようになりました。それがはっきりとした人間の画像になり、それが動画になって見えるようになりました。今では生きている人と間違えるぐらいにはっきりと観えます。

 

それは音についても同様です。最初はお寺の梵鐘の音や鈴の音が耳鳴りのように時々耳に響きました。それがしばしば人の声を感じるようになります。最初は脈絡のない人の話し声が、やがて意味を持った言葉になって聞こえるようになったのです。

 

前回のブログで現世を離れていく霊体は、ハッキリと見えていたものが、やがてボンヤリと見えるようになります。色や輪郭が薄くなって見えるのです。それが影のようになり、さらに色が薄くなると、いずれ景色の中で霧散していくのです。霊的な感覚が鋭くなっていくときと逆の流れのように映ります。

 

このように霊的な感性は多くの場合は時間をかけて少しずつ鋭くなり(=間口が開いていき)、それに伴ってボンヤリと見えていたものをはっきりと感じ取れるようになっていくのです。