因果とは簡単に言えば”原因と結果”そしてその関係のことです。仏教用語として用いる場合は、前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れることです。人によっては今を生きている私たちに訪れる結果は、すべて因果によって決められていると言い切る人もいます。
例えば、今世でとても幸せな人生を生きている人は、今世や前世で善行をたくさん積んできたからだという考え方です。私もよく未来は思考ではなく行動が作っていると話しています。そういった意味では、幸せな人生を生きている方は善行を積んで、今不幸な人生を生きている方は悪行を積んできたからだという考え方は、間尺に合っているようにも思います。
しかし、私は霊の問題の根本は霊的な波長が合うかどうかで決まり、そこに理由は存在しないと感じています。今、強い霊障を受けて厳しい人生を歩んでいる人が、今世で、或いは前世や過去世で、悪行を積んできたからだと断罪するのはあまりにも乱暴すぎます。
確かに理由があって霊の問題を背負っている方もいます。理由があって霊障を受けているケースは単に霊的な波長が合って同調したケースに比べて、かなり強く悪影響が出ます。中には命に関わるくらいにひどい影響が出てくることもあります。
しかし、私は霊の影響で強く人生をゆがめられている人の中に、誠実に正しく生きてきた人を何人も知っています。先祖のご供養もしっかりと行い、人から恨まれることもなく快活に生活してきた方が、ある日突然、不浄霊に憑かれたことによってあり得ないような塗炭の苦しみにさいなまれてしまうのです。その原因が今世では見つからず、前世やその前の人生を見ても原因は何も見つかりません。過去世を調べても何も原因が無いのに、強い霊障を受けてしまうケースがしばしばあるのです。
それでも、その人の過去世を10代も20代も遡って、悪行を働いていたご先祖を見つけたとします。でもそれが今の自分を悩ましている霊障の原因だとすることは単なる“こじつけ”にしかなりません。私の経験からすれば、過去世の因縁因果によって霊の影響を受けてしまうケースでは、かなり強く影響が出ます。したがって最初にその人を観た瞬間にその因果を強く感じるものなのです。見つからない原因を探し続けて、やっと15代前に悪い先祖がいたというようなケースでは、そのご先祖は因果の理由にはなりません。それならば、霊の影響のすべてを因果に求めるのではなく、因果に寄らなくても霊の影響を受けることがあると考えた方が、はるかにつじつまが合います。
今回のブログでこの問題に触れたのは、最近、何も悪いこともしていない方が、不浄霊の影響で厳しい人生を強いられているケースがいくつか続いたからです。まだ、学齢にも達していないお子さんが霊障による原因不明の病気で入院生活を強いられているケース。何も悪いことをしていない幼児が、不慮の事故によって命を失ってしまったケース。こんな不幸な目に遭ってしまった子供たちに「その原因はあなたが前世で悪行を積んだからだ」と、どうして言えるでしょうか。だから私はいつも皆さんに話しています。
霊の問題とは、理由が無くても本来、理不尽に我が身に降りかかるものなのです。人は何かトラブルが起こればすぐにその原因を探します。しかし、霊の世界は、因果に当てはまらない出来事もしばしば起こりうる世界なのです。