気が付くと私は窓の外を向いたまま眠り込んでいました。考えてみれば朝6時に浄霊のマントラを上げて、そのまま品川駅へ向かいました。疲れていないと言えば嘘になります。目覚めてしばらくして車内を見ると「ただいま、三島駅を通過」とメッセージが表示されました。名古屋駅を過ぎて三河安城駅を通過する前には眠っていましたので、三島駅まで1時間ぐらいは寝たことになります。
私は車窓に映る街の明かりを眺めていましたが、三島駅を過ぎると熱海駅から小田原駅まではトンネルが続きます。列車がトンネルに入ると街の明かりは消えて、車窓には私の顔と車内の様子が映し出されます。私は窓に反射する自分の顔をぼんやりと眺めました。しかし、しばらくすると何気なく見ていた自分の顔がどんどんゆがんでいくことに気が付きました。顔の形が斜めに引き延ばされたように変化しはじめたのです。私はあわてて目をこすり、車内の様子に目を凝らしました。私の隣のB席C席に座る親子も、通路を挟んだD席E席に座るサラリーマンらしき男性も特に変わったことはなく当たり前に眠っています。
私はもう一度、窓に映る自分の顔を眺めました。すると今度は明らかに私とは別人の顔が映りました。窓に映った人は労務者のような身なりの男性です。顔は埃にまみれて額には汗が浮かび上がっています。つるはしのようなものを持って、顔をゆがめながら何かを一生懸命掘り続けています。そして次の瞬間、まるで海にでも飛び込んだように周囲が水浸しになります。水はどんどん水位を上げて、あっという間にこの男性を飲み込みました。私には水の中でもがき苦しむ苦悶の表情がはっきりと見えました。男性はしばらく水の中で全身を振るわせた後、突然、全身の力が抜けたように水の中に浮かびました。
私は自分の目に映るこの状況に合点がいきました。のぞみは今まさに新丹那トンネルを通過している最中でした。以前、このブログでも触れたことがある新幹線の専用トンネルです。東京を出発して西へ向かう東海道線は、最初は国府津駅から今の御殿場線を通る大回りをして沼津駅へ抜けていました。このルートを直線的に貫くには箱根の山の中を貫く長いトンネルを掘らなければなりません。しかもそのためには溶岩層や礫や砂でできたもろい地層を掘り進める危険な工事を行わなければなりません。さらにこの辺りの丹那盆地には箱根や富士山からしみ出してくる大量の地下水が溜まっていたのです。
小田原駅から三島駅まで続く数々のトンネルの中でも熱海駅から函南駅間に作られた長さ7804mの丹那トンネルは特に難工事になりました。昭和9年に丹那トンネルが開通したおかげで、御殿場駅から沼津駅までの距離は約11・8キロも短縮されたのです。しかし、大正7年(1918年)に着工された工事は、大量の地下水がトンネル内に溢れ出す湧水事故を何度も引き起こしました。そして7年の予定を大幅に上回る16年の歳月と67人という数多くの作業員の犠牲のもとに完成したのです。
そして丹那トンネルの約50m北側に並行して掘られたのが、新幹線専用として熱海駅と三島駅間にできた新丹那トンネル(長さ7959m)です。新丹那トンネルの工事は昭和34年(1959年)に始まり、昭和39年(1964年)に4年4か月の工期で完成しました。この工事では丹那トンネルの工事で地質が事前に把握できたことや、丹那トンネルで発生した数々の大量湧水事故によって、この地域の地下水がすでに抜けていたため、大きな事故は起こりませんでした。しかしそれでも完成までに21人の作業員がこの工事で亡くなっているのです。
今、私はまさにそのトンネルの中を進んでいたのです。(3)へ続く。