横浜の観光名所として有名な山下公園から、南へ15分程歩くと、おしゃれなお店が何軒ものきを連ねる元町商店街に到着します。そこからさらに南を見ると小高い丘があって、丘の上には横浜港が一望できる”港の見える丘公園”があります。この辺りは住所でいうと”横浜市中区山手”というエリアになります。この付近は芝生の庭がある洋館や豪邸が立ち並ぶ横浜でも随一の高級住宅街になります。昔、荒井由実さんの歌で歌われた”山手のドルフィン”は実は山手エリアではなく、ここから少し離れた中区根岸旭台にあります。ドルフィンは創業57年を迎えた今も、昔と変わらずに営業を続けています。

 

さて、港の見える丘公園から、西方向へ通りを渡ると外人墓地があります。この外人墓地は今では横浜の観光スポットの一つになっていますが、この墓地自体の歴史は古く、嘉永7年(1854年)に増徳院というお寺の境内に作られたお墓に由来しています。このとき、横浜港に寄港していたアメリカのフリゲート艦「(=巡洋艦と駆逐艦の中間の大きさで、高速で偵察や哨戒の任務にあたる軍艦)の若い水兵(24歳)が、マストの上から転落して亡くなってしまいました。艦隊を指揮していたペリー来航で有名なペリー提督は、遠い異国の地で亡くなった若い水兵の死を悼んで、せめて海の見えるところに彼を埋葬してほしいと幕府に埋葬地を要求しました。その結果、港の見える丘の上に立つ増徳院の境内に墓が作られることになったのです。

 

その後も外国人の死者が出ると、このお墓の周囲に埋葬されることになり、文久元年(1861年)に外人専用の墓地として定められました。したがって江戸時代末期から、明治・大正・昭和と、この墓地にはさまざまな国籍の外国人が埋葬されて、その数は4千人以上になっています。ただ、異国の地で亡くなった外国人のお墓ですから、自分の家族や子孫がお墓の管理をできるわけでもありません。したがって中には荒れ果ててしまい、最後は無縁仏になってしまった方々も多くいるのです。そういった経緯があるためか、この外人墓地やその周囲で白人の幽霊や黒人の親子の霊を見たという目撃談が後を絶ちません。一部のサイトでは、神奈川県の心霊スポットの一つとして取り上げているところもあります。

 

私も若いころに夜にこの辺りを車で走っている時、暗闇の中、ヘッドライトに白いドレスを着た女性が突然浮かび上がり、口元で笑いながら私に一瞥をくれるとフワーッと目の前から消えたことがあります。また、深夜に走行している私の車に黒人の大柄な男性が前方からゆらゆらと近づいてきて、すれ違いざまに車内に”ドカンッ”という衝撃音が鳴り響いたこともあります。私はてっきり、人をはねてしまったと思い、車を急停車させました。そして救護をしようと慌てて車の外へ飛び出しました。しかし、車の前方にも周囲にも誰一人いませんでした。念のため、車の底も覗き込みましたが、誰もいません。ただ、車をじっくり確認すると、車の屋根の部分に泥だらけの両手の手形がくっきりと残されていました。確かにこの外人墓地の近くで何度かおかしな体験はしています。管理する人のいない荒れ放題の自分のお墓を見て、安心してあの世へ上がることができずに、この地にとどまってしまったのかもしれません。ただ、横浜には有名な山手の外人墓地の他にもあまり知られていない外人墓地がまだいくつかあるのです。中にこの外人墓地よりもさらに強い執着や因縁を感じさせるところもあります。(2)へ続く。