”お玉が池”は、東京都千代田区にもあります。こちらは普通は”於玉が池”と表記します。こちらの池でも池のほとりにあった茶屋で働いていたお玉という女性が池に身を投げて亡くなっています。お玉の亡骸は池のほとりに葬られました。人々はお玉を不憫に思い、近くに”お玉稲荷”を作ってお玉の供養をしました。そして、それまで桜が池と呼ばれていた池を於玉が池と呼んでお玉を忍んだのです。
箱根のお玉が池にもいくつか悲しい話が残されています。昔の話ですので微妙に話は食い違っているのですが、共通している話は、次のようなものです。元禄15年の2月にお玉という名の少女が、箱根の関所破りの罪で関所の役人に捕らえられます。関所破りは当時は大罪です。伊豆出身のお玉は、江戸で奉公に出されて働いていましたが、家族が恋しくなって奉公先の店を抜け出します。そして通行手形を持たないまま箱根までやってきます。箱根の関所の周囲には柵が設けられて、関所が破られないようになっています。そこでお玉は関所から離れた裏山へ入り、そこを迂回して関所を抜けようとしました。
しかし、関所の役人は、そのような事態はあらかじめ想定していました。そのためお玉はあっさりと捕らわれてしまったのです。そして吟味の結果、お玉の年齢が若かった分、少し減刑されて、当時、6種類ある死罪の中で、”磔(はりつけ)獄門よりは軽い”打ち首獄門”になったのです。
磔刑は地面に穴を掘って磔柱を垂直に建てます。柱の形状は男性は「キ」の字に、女性は「十」の字になります。そこに罪人の手首・上腕・足首・胸・腰を縄で縛りつけます。そして上半身の衣服をはぎ取り、そして左右に槍を持って立った身分の低い手代が、まずは右わき腹から左肩にかけて槍を貫通させます。次に左わきに立った手代が、左わき腹から右肩にかけて槍を貫通させます。普通はこれを2~3回繰り返すと、出血多量か、外傷性ショックによって絶命します。しかし、この作業は絶命した後も30回ほど繰り返されるのです。
そして獄門とは”さらし首”のことを言います。絶命した罪人の死体から首を切断します。そして胴体は何度も試し斬りにされます。首は獄門台という板の上に釘を下から上へ貫通させて、そこに首を差し込んで3日間晒されるのです。
お玉は磔刑は免除されたものの、打ち首獄門になりましたので、刀などで首を切り落とされて絶命します。そのあと首は獄門台に3日間晒されたのです。お玉は捕らえられた関所の裏山の坂道で斬首となったあと、池のほとりに建てられた獄門台で首をさらされました。村人たちはお玉を哀れに思い、さらされた首を獄門台から引き抜くと近くにあった”なずなが池”と呼ばれた池できれいに洗って供養しました。そのなずなが池が今はお玉が池と呼ばれているのです。
当時の法律を犯したとはいえ、家族恋しさに家へ帰ろうとした少女の思いは察してあまりあります。その結果、このような残酷な殺され方で命を奪われれば、その魂は容易に成仏できるものではありません。私を池のほとりに呼び込んだのも、そんな悲しみや無念さゆえだと思えば、不浄霊に対する怒りよりもむしろ哀れに思えてきます。私は会ったこともないお玉の成仏を願って、車の中で全力で魂を供養するマントラを唱えました。そしてエンジンのスタートスイッチを押すと、今までのことが嘘のようにエンジンは始動して車はスムーズに走り出したのです。