私は以前、住所でいうと東京都世田谷区世田谷に住んでいました。三軒茶屋駅から下高井戸駅まで”世田谷線”という路面電車が通っています。その中間にある上町駅のすぐ近くです。この辺りは渋谷や新宿が近く、それでいて静かな住宅街ですのでとても住みやすいところでした。私の家の近くには世田谷城址公園という小さな公園があります。ここは城址公園というぐらいですから、元は世田谷城というお城が建てられていました。世田谷城は1366年に奥州の大名「吉良治家」によって建てられ、代々吉良家が収めていました。やがて吉良氏は戦国大名の北条氏と親戚関係になります。そのため豊臣秀吉が小田原城の北条氏と戦った時に、世田谷城は豊臣方に接収されて、その後、廃城になってしまいました。今は、土塁の跡や空堀があって、それがかろうじてここにお城があったなごりを残しています。

 

世田谷城には「鷺草」の伝説が残されています。それは吉良家の側室として当時、世田谷城に住んでいた常盤姫の悲話です。常盤姫は当時の城主、吉良頼康の重臣、大平出羽守の娘です。吉良頼康には13人の側室がいましたが、常盤姫は頼康からもっとも寵愛を受けていて、やがて懐妊しました。そして頼康はますます常盤姫を愛するようになりました。

 

そのことが面白くない他の12人の側室は、常盤姫に対する嫉妬心から、卑劣なたくらみを企ててそれを実行しました。城中で一番の美男子と言われた内海掃部と常盤姫が不義密通を続けているという根も葉もない噂を流しました。そして常盤姫の字に似せて恋文を書いて、それを掃部の懐に入れました。それを人に見えるようにわざと露見させたのです。そして常盤姫が懐妊した子供も掃部の子供であると吹聴したのです。

 

この話を聞いた頼康は怒り狂い、すぐに掃部を討ち取りました。そして常盤姫を捕らえるように家臣に命じました。常盤姫は間一髪のところで城外へ脱出しましたが、追手が迫っていることを知ると、遺書を書いてその文をかわいがっていた白鷺の足に結んで実家へ向けて解き放ちました。そして追手が常盤姫を捕らえたとき、常盤姫はすでに自害していて、胎児も一緒に亡くなったのです。

 

この事件の2日後、掃部の屋敷が突然大きく揺れると、家の中から煙が噴き出しました。すると屋敷の中にいたある側室の下女が突然、発狂して、側室たちの数々の悪事を大声で暴露し始めたのです。その叫び声がやがて掃部の声に変わると、無念の思いを語りだし、文にその思いをしたためたのです。そして最後の文字を書き終えると、この下女は失神して倒れました。

 

頼泰は家臣の進言もあって、この事件の真相を徹底的に再調査しました。その結果、側室たちの悪事は動かしようのない事実として白日のものとなりました。そして、頼康は12人の側室全員を処刑しました。しかし、この後も領内では不思議な怪現象が続きました。そこで頼康は、駒留八幡神社に死んだ胎児を若宮八幡として祀りました。その境内の中には田中弁才天を建てて常盤姫を祀りました。

 

常盤姫が放った白鷺は実家へ戻る前に力尽きて死んでしまいました。その白鷺が落ちた場所には、白鷺が羽を広げたような、見たこともない白いきれいな花が咲きました。人々はその花を”鷺草”と呼んで大切に育てました。(2)へ続く。